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徹底討論「ジャーナリズムの復興をめざして」
【討論(前半)】(4)

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※注1

2006年7月31日 朝日新聞朝刊

[見出し]

 (風考計)靖国とA級戦犯 天皇の「心」をどう読むか 若宮啓文(論説主幹)

[本文]

 昨年5月、北京の清華大学で学生たちに話をしたときのこと、ある学生が激しい口調で私に質問した。

 「小泉首相は靖国神社に参拝していますが、かつて中国人を虫けらのように扱い、ひどい目に遭わせた軍国主義の指導者たちに手を合わせ、感謝の祈りでもささげているのか」

 これにはさすがに唖然(あぜん)とした。「いくら何でもそうではない」と説明したが、彼に納得の様子はない。そこで思わずこう付け加えた。

 「首相はともかく、A級戦犯が合祀(ごうし)されて以来、天皇陛下が一度も参拝していないのをご存じですか」

 その瞬間、何と拍手が起きた。約200人の聴衆のうち十数人だったかも知れないが、これで教室の空気が一変した。首相が立てる波風を、まるで天皇が和らげているようだった。

    ◇

 今月、A級戦犯の合祀に不快感をぶつけた昭和天皇の生々しい言葉が、宮内庁長官だった富田朝彦氏のメモで明らかになった。「私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と結ばれた発言メモは、天皇が靖国参拝をやめた動機をはっきり裏付けた。

 富田氏から伝わっていたのだろう、実は私も晩年の後藤田正晴氏から似た話を聞いたことがある。それは徳川義寛・元侍従長の証言などからも推測されていたのだが、最近はことさら別の理屈をつけて天皇参拝の中止を説明する人もいた。今度のメモが出てこなければ、見当違いの言説がまかり通っていたかも知れない。

 さて、事実がはっきりしてみると、新たな疑問も浮かんでくる。

 「戦争の全責任を負う」と、一度はマッカーサー元帥に申し出た昭和天皇だ。そうならなかったのは、東条英機元首相らが一切の責任を負ったからではないか。それなのに、A級戦犯の合祀は許せないとか、参拝をやめたなどと、人情として言えるものか――。

 実は、これまでもそんな心情から天皇の参拝中止を複雑な目でながめてきた人たちがいる。「みな口には出さないが……」と、ある首相経験者も言っていた。今度のメモに反発する人には、天皇の「広い心」を否定したくないという深層心理もうかがえる。

 一方、天皇の戦争責任を鋭く問う側からは、このメモが天皇の責任問題を薄めてしまう、と嘆く声も出る。右も左も同様に困惑の様子なのだ。

 では、昭和天皇はなぜ「合祀」に厳しい態度を示したのだろうか。

 A級戦犯を裁いた東京裁判は、確かに天皇の免責と表裏一体だった。マ元帥の離任に際し、天皇が裁判への謝意を表したという記録も残る。だから合祀が裁判否定につながるのを天皇が嫌ったとしても不思議はないが、それは自らの保身のためではあるまい。

 なぜなら、裁判の受け入れによって保証されたのは天皇の存続にとどまらず、戦後日本の再出発にほかならなかったからだ。天皇は新憲法のもと、日本再生へ自分が新たな役割を担わされたことを誰よりもよく知っていた。

 個々の処刑者に対しては様々な感慨もあったろう。だが、それは私情の話だ。国家の命令で出征し、命を落とした兵士たちの慰霊に、戦争を命じた指導者を交ぜてしまったら、天皇が痛感する戦争への反省も、日本の再出発もうやむやになる。そんな所に参拝はできない。そう考えたのならわかりやすい。許せなかったのはA級戦犯というよりも、その合祀だったはずである。

    ◇

 今年こそ8月15日に参拝するかどうか、小泉首相はいま迷っているのではなかろうか。「それぞれの人の思いですから。心の問題ですから」と富田メモの影響を否定はしたが、果たしてそれですむだろうか。

 もちろん天皇が絶対の時代ではないし、天皇にも首相にも「それぞれの思い」があってよい。だが、天皇は「国民統合の象徴」であるばかりか、過去の経緯から戦没者の追悼に人一倍の責任をもち、その言動が国民に注目される公的存在だ。その天皇が「あれ以来参拝していない」のを公然と無視できるのだろうか。

 現在の天皇陛下もつらかろう。沖縄にサイパンにと、慰霊の旅を責務と心得ながら、靖国神社には足を向けていない。昭和天皇の「私の心」を引き継いでいるのだろう。

 首相は自分の「心」にこだわるだけでなく、天皇の「心」にも思いを致すべきではないか。国民統合の象徴である天皇がわだかまりなく追悼に訪れる場所をどう確保するか。それは「天皇の政治利用」どころか、政治の務めというものだ。

 折しも福田康夫氏の不出馬で、安倍晋三氏が首相の座に近づいた。ミサイル発射の北朝鮮に対し、官房長官として国連決議をリードしたのはその前触れか。だが、「自由と民主主義」の国際連帯に旗を振りたいのなら、その象徴とかけ離れた「靖国」で、わざわざ連帯に水を差さぬ方がよい。

 昭和天皇の発言メモは「中国の横やり」とは訳が違う。小泉さんも安倍さんも、思い切った発想転換へ、これはよい機会ではないだろうか。

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※注2

2004年3月18日 朝日新聞朝刊

[見出し]

 警鐘はわかるけれど 出版禁止(社説)

[本文]

 田中真紀子前外相の長女の私生活に関する記事を載せた週刊文春の3月25日号に対し、東京地裁が出版を禁止する仮処分命令を出した。

 裁判所の決定を受け、文芸春秋は手元に残っていた約3万部の出荷を取りやめたが、70万部以上がすでに出荷済みで、そのかなりの部分が販売された。

 有名な政治家の家族に生まれたというだけで、どうして子どもの私生活まで書き立てられるのか。ニュースに接して、そんな思いを抱いた人も多いだろう。

 不正を暴き、社会的な問題を提起しようとする週刊誌の記事はある。今回はそうしたものとは違い、個人の私生活を暴き立てようとしただけだ。政治家の利権やカネといった問題とも無関係である。雑誌を売るために、公人でもない一個人に痛みを強いる記事には公共性は感じられない。

 文芸春秋は裁判所の決定に対し、「言論の制約を意味する暴挙」との談話を出した。私人のプライバシーを興味本位で暴きながら、表現の自由をその正当化に使っているのである。それが、表現の自由の価値を結果的におとしめていく態度であることに気づかないのだろうか。

 売れさえすれば、書かれる側のプライバシーなどお構いなし。今回の決定はそうしたことがまかり通っていることへの警鐘でもあるだろう。

 だが、指摘しておきたいのは、問題とされた週刊文春の記事の正当性と出版差し止めの是非とは別であることだ。

 個人のプライバシーを保護するためであっても、裁判所による出版禁止という方法が適切で、避けられないものだったかということである。

 社会にかかわり、物事を判断しながら生きていくには、様々な情報に接し、価値観の異なる多様な考えが社会の中に存在することを知るのが欠かせない。こうした情報の自由な流通に公権力が介入することには、くれぐれも慎重であらねばならない。憲法で表現の自由が保障され、検閲が禁じられているのもそのためだ。

 裁判所も公権力の一つである。検閲とは異なるとはいえ、もしも記事が世に出る前に出版を禁じるという動きが広がっていけば、知る権利にこたえようとする報道すら、規制の対象になりかねない。

 もちろん、表現の自由と私人のプライバシーの権利の兼ね合いは難しい問題だ。だからこそ、判例も裁判所による出版差し止めには厳格な縛りをかけ、公表した場合に取り返しのつかない損害を与えるような例外的な場合にしか許されないという立場をとってきたのだ。今回の決定はこれまでの判例を大きく踏みはずすものである。

 そんな事態を招き公権力介入の口実を与えた週刊文春には改めて反省を求めたい。表現の自由を大事にすることは、雑誌であれ新聞であれ、メディアの仕事である。

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※注3

2004年4月1日 朝日新聞朝刊

[見出し]

 取り消しは当然だ 出版禁止(社説)

[本文]

 田中真紀子前外相の長女の私生活を暴いた週刊文春が出版を差し止められた問題で、東京高裁は差し止めを命じた地裁の決定を取り消した。

 問題とされた記事には公共性や公益を図る目的は認められないとしながらも、それが公表されると被害者に重大で回復できないような損害を与えるとまでは言えない。高裁はそう述べた。

 裁判所はこれまで差し止めという伝家の宝刀を抜くことをできるだけ控えてきた。今回の決定は従来の判例の流れに沿ったもので、妥当な判断だ。

 たとえ裁判所であっても、出版される前に記事の内容を審査することが一般化すれば、それは事実上の検閲になる。民主主義の社会を支えるために欠かせない自由な情報の流れが止まってしまう。

 そんな危険性をきちんと受け止めてのことだろう。高裁の決定は「出版物の事前差し止めは表現の自由に対する重大な制約であり、これを認めるには慎重なうえにも慎重な対応が要求される」とくぎを刺した。

 出版を差し止めた地裁の仮処分命令、これに対する文芸春秋からの異議申し立てを退けた地裁の決定は、表現の自由を軽んじていたといわざるをえない。

 表現の自由に直接かかわる重大な問題であったにもかかわらず、仮処分命令は合議ではなく、裁判官1人での判断だった。そのうえ、決定の理由は「申し立ては相当」としか書かれていなかった。内容だけでなく、決定の方法や説明の仕方にも問題を残した。

 異議申し立てを受けて、3人の裁判官で合議した地裁決定も、長女のプライバシー侵害について「真に重大かは議論の余地がありうる」といいながら、最後の手段である差し止めをあっさり認めてしまった。

 他人に知られたくない私生活の中身はいったん外に出てしまえば、取り返しがつかない。名誉棄損よりもプライバシー侵害の場合の方が、差し止めの要件は緩やかでいい。そうした考えに地裁の決定は立っていたようだ。

 だが、そのような立場に立ったとしても差し止めは行き過ぎだった。高裁決定からも、そうした趣旨が読み取れる。

 もちろん、今回の決定によって週刊文春の記事が正当化されるものではない。

 政治家の子どもとはいえ、一私人にすぎない個人の私生活を書き立て、プライバシーを侵害したことに変わりはない。

 高裁の決定も「記事は、憲法上保障されている権利としての表現の自由の行使として、積極的な評価を与えることはできない」と指摘した。

 メディアが表現の自由の名の下で、私人に痛みを強いて我慢せよと迫る。そんなことではとても市民の共感を得られないだろう。

 官僚や政治の腐敗、権力の不当な介入と戦い、市民の権利を守ろうとする。そういうときこそ、表現の自由は輝きを増すものだ。


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