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東京大学・朝日新聞共同シンポジウム 「大学の試練と挑戦―日米欧のトップが語る」

小宮山宏氏の基調講演(1)

写真小宮山宏氏

■「曲線の時代」への柔軟さを

小宮山
どうもこんにちは。たくさんお集まりいただきまして、大変ありがとうございます。
ちょうど1週間前になりますが、この同じ場所で、東京大学は創立130周年を祝う式典を開催しました。日本では大学という概念や機能は律令制のもとにおける大学寮に示されるように、1300年にわたる長い歴史があります。その長い歴史の上に、近代的意味における大学として初めて設立されたのが東京大学です。
この記念式典に先立つ講演会で、卒業生である3人のノーベル賞受賞者が「私と東大」というテーマで話をなさったのですが、それぞれの方から学生に向けたメッセージをいただきました。
まず、物理学者の江崎玲於奈氏は、サイエンスの心、論理的な思考力について、また、同じく物理学者の小柴昌俊氏は、英語教育の重要性と能動的な研究姿勢について、さらに、文学者の大江健三郎氏は、自分とは異なる分野の知識人とのつながりを高めていくことの大切さをそれぞれ強調されました。これらの指摘は、いずれも私自身、今の日本の大学の課題として考えていることに合致しているように思います。
現代は曲線の時代です。リニアに予測可能な形で進んでいく社会を想定できる時代ではないと思います。曲線には無数の接線があります。さまざまな方向の価値や考え方を持った接線を受けとめて、時代の曲線をかたどり、また、さまざまな方向へ多様な接線を発信していく、そうしたことが求められる曲線の時代に今私たちはいます。
曲線の時代には、社会や技術の変化を鋭く見きわめ、あるいは、変化の動きを創造しながら、豊かな可能性を持った時代のカタチをつくり、また、それに柔軟に適応していく力が必要です。
そのために大学教育は何をすべきでしょうか。先ほど触れたノーベル賞受賞者の方々からの示唆も踏まえまして、曲線の時代における大学教育のあり方を考える素材として、きょうは外国語教育と教養教育という2つの観点を取り上げてみたいと思います。
まず、外国語教育についてお話をします。
今、日本の多くの大学では、特に入学後最初の2年間、英語をはじめとする外国語教育に大きな力を注いでおります。東京大学の場合は、最近、英語のアカデミックライティングの教育を理科系のすべての1年生を対象として始めました。
特にライティングを強調したのは、今の国際社会で発信を行っていくことの重要性を強く感じるからです。日本の大学生、特に東京大学に入ってくる学生は、英語を読む能力は極めてすぐれています。これは受験に対応するための日本の大学生の基本的なパターンですが、それは日本が近代化の過程において海外との交流に当たって知識の受容に重点を置いていたということのあらわれであるように思います。私たちは今、それを大胆に変えたいということなのです。
既に自然科学分野では、ほとんどすべての研究成果は英語で発信されるようになっていますが、さらに多くの若い学生たちに、英語をツールとして自分の研究成果や考え方の存在を国際社会で積極的にアピールしてもらいたいと考えています。
ただ、私は、英語の能力が備わるだけで大学の国際化が達成されるとは全く考えておりません。私たちは外国語教育において、英語の教育をするとともに、いわゆる第2外国語、第3外国語の教育を早くから行っているということを誇りにしております。
そうした複数外国語の教育は、やはり近代化の過程における西欧の知識の移入の動きと無関係ではありません。しかし、今改めてこうした複数外国語教育の意義の再定義を行いたいと考えています。その基本にある考え方は、多くの言語を知ることが多くの文化をより深く理解することにつながるということです。これは先ほど冒頭で触れた講演会において、大江健三郎氏が、すべての言語は普遍的であり個性的であると述べられていることからもわかると思います。
こうした多様性に対する深い理解によって、若い人たちがこれから国際社会で生きていくいわば皮膚感覚が違ってくるであろうということ、また、物の見方がより複眼的で幅広くなるであろうことを期待しております。
そこでは、いわばフュージョン型の文化の多様性が創造される可能性もあるのではないでしょうか。すなわち、自国語と外国語、あるいは、自分の文化と異文化といった二項対立を超えて、2つ以上の言語と文化の間につくり出される文化的創造の場の誕生です。
国際共通語となった英語を基盤として、さまざまな異文化の人々とコミュニケーションを図ることはもちろん今や不可欠になっています。しかし、そうしたコミュニケーションのあり方は、多様で複雑で豊かな言語と文化の実態、さらに、そこから生み出される多様な想像力をややもするとないがしろにするおそれがあります。
いわば人類の世界遺産の中でも最も重要というべき、この多様で複雑で豊かな言語と文化を活かす方法として、東京大学では幾つかの試みを行っています。
例えば、フランス人の教員が日本語で中国言語学を教える、アメリカ人が日本語で日本古典文学を教える、日本人が英語で中国哲学を教えるなどといったことが現に行われているのです。つまり、自国語を使わずに、自分以外の文化を講じるといったことが既に日常的な光景となっております。
これはほんの一例ですが、世界における言語と文化の多様性を肌で感じることのできる環境の中で培われる学生の能力は、曲線の時代を生きていくにふさわしいものに育っていくだろうと、そう考えているわけです。
もう一つとり上げておきたいのは、教養教育の問題です。
日本の多くの大学で1、2年生の教養課程が廃止されていく流れの中で、東京大学はあえて教養教育の意義にこだわった大学です。
確かに教養という言葉で何を意味するのか、それは人によって大きく異なります。近代化の過程では、教養といっても高踏的なものから大衆的なものまで極めて大きな幅がありました。私たちの大学では教養教育というときに、専門の基礎となる一般教育とリベラルアーツ教育との双方がミックスされ、含意されております。それをごく素朴に表現すれば、知識の幅の広さへの期待、そう言ってよいでしょう。
この知識の幅の広さということですが、現代社会では知識の領域が細分化しており、専門的な知識の世界に入り込むとそこでタコつぼ的に自足することになりがちです。ただ、他方で、現実はますます多様な知識の組み合わせを、そしてまた、専門知識のいわば空白地帯を埋めることを必要とするようになっております。
その一つの場面はものづくりです。例えば、人工衛星はさまざまな先端技術の塊ですが、専門化した知識の寄せ集めだけではしばしば不具合を起こします。このことは我々は経験済みです。ものづくりにおいて、さまざまな技術をすり合わせ、融合させるためには、そのつなぎとなる幅広い知識が必要なのです。
とはいえ、幅広い知識をどのように学生に教育するか、それは工夫を要する課題なのであります。総花的に広く薄く知識を伝えるだけでは、その意味を理解でき、また、関心を持つ学生は極めてわずかなのです。
20世紀に知識は爆発的に増えました。知識が単に量的に膨張しただけではなく、無数の専門分野に細分化されました。そうした知識が体系的に整理されずに活用されにくくなっているため、例えば環境問題をはじめとして、人類が初めて直面するような問題についての解を適切に提示できなくなっているというのが今日の状況です。
ここで膨大な知識を階層的に整理して使いやすい形にすること、互いの知識を関連づけて学問の全体像を浮き彫りにすること、さらに、最先端の学問と社会における価値を結びつけることを必要としています。私はこれを知識の構造化と呼んできました。
こうした構造化が教育に当たって重要な視点です。つまり、極めて多様になった知を学ぶに当たって、それらを広い視野から俯瞰できることが大切なのではないでしょうか。学生が多様化し細分化した知識が相互にどのような関係にあるのかを理解しながら、知の体系や構造を理解し、学問の大きな世界とその魅力を学ぶことが重要であると考えております。

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