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東京大学・朝日新聞共同シンポジウム 「大学の試練と挑戦―日米欧のトップが語る」

パネルディスカッション(7)

写真浅島誠氏
写真宮田亮平氏
丹羽
エリートというのは、ノブレス・オブリージュといいますか、そういうものをバックにして、人々、自分以外のいろんな人々に対する責任を持たなきゃいけませんよね。それで、やはりある程度の高い倫理観とか、そういうものを身につける必要もあると思うんですね。
それはただ単に知識を修得するということじゃないと私は思います。それはアリストテレスがアレクサンドロス、つまり後のアレキサンダー大王の教育係であったときに、最も彼が時間を使ったのはその部分であるわけですね。
例えば幾何学と論理学の彼は大家であるわけでありますが、その知識を教えるというのはそれほど難しいことではないんです。あるいは、東京大学に入る、そこで知識でもって優等な成績をとる、それもそれほどたいしたことではない。知識の豊かな人がエリートで人間力があるのか、それはまた違う尺度で、とんでもない裁判官が出て、とんでもない教養を欠いた人間が出てきたら、国家にとっては大変な害になると思うんですね。そういう人は少ないかもしれません。
でも、そういう教養というものは知識とか教育というものがベースにならないとなかなか身につかないと思うんですね。
従って、最初は知識というものが必要ですけれども、それで十分条件ではない。やはりアリストテレスが気にしたように、人間の教養といいますか、例えば当時であれば決断力とか、部隊を、軍隊をいかに撤退させるかとか、そういう、あるいは、部下に対する、兵士に対する目線ですね。そんなような人間としての懐の深さとか、そういう倫理観とか、勇気とか、そういう、私の言葉でいうと人間力というんですが、教養力、人間力というものをいかに養うかというのが私はエリートの務めだと思うんですね。
それは読書もあるでしょう。あるいは、仕事から学ぶ点もあるでしょう。あるいは、人は人で磨かれるということもありますから、やっぱり人と仕事と読書で磨いていくと、磨かれるという部分がエリートとして大変大事な務めだと思いますね。
そういうものは学校ではなかなか得られませんね。知識ではなかなか得られません。ということで、私が今、青山フォーラムというのを我が社でやっております。ある程度選別をしまして、まさにグループとしてのエリート教育を、はっきり言って、やっているんです。それで、毎年入れかえはやりますけれども、もう、イコール・オポチュニティでありますが、その中で一番気をつけてやっておりますのは、やはり仕事と人生というテーマであります。
そういう中で一番教えたいのは、私が申し上げたら、リーダーというものは自分の部下に対する責任があるんだと。いざというときにやはり体を張って、自分の命をかけてでも守らなきゃいけないものがあるんだというようなことですね。やはりサクリファイスの精神とか、あるいは、今日本人で最も欠けておりますドネーションというものに対する精神とか心とか、そういうものを今私は一生懸命、教えるほどの力はないけど、私の人生経験の中でお話をし、あるいはまた、財界とかそういう有力な方々をお呼びしてお話をお聞きすると、またディスカッションをするということを続けているわけであります。
私の言うエリートとはそういうもので、エリートというのは自然科学のように、これとこれをやったらイコール、エリートですよというものは社会科学にはございません。パラダイムというものは、社会科学はいつもそうでありますが、正があれば反がありますし、いつも仮説の上に成り立っておりますから、そういう意味からいって、圧倒的にこれをやったらそうなりますよということはありませんから、お答えには自然科学のように私はディサイシブに言えませんけれども、大体私の言おうとするところをくみ取っていただけたんではないかと思います。
船橋
ありがとうございます。
次は浅島さんに伺います。東大改革の中で、エリート教育というものが柱になっているのか、その教育の充実にどのような考え方で臨まれているのでしょうか。
浅島
1つは、エリート教育といったときに、まず教養の持つ力、そして、先ほどの丹羽会長のお話とも通じるんですが、やはり本来持つべき人間力というものがベースにあると思います。つまり、いろいろな人たちと話をしたりコミュニケーションをしたりするときに、そのものを感じることができる、あるいは、感性としてそれをちゃんと受けとめることができる力と、それを判断する力、そして、それを自分の言葉で議論する力、的確に判断する力、こういうようなことがきちんとできる力が、僕はエリートの最低限の条件だろうと思います。
そして、自分の分野の最先端で世界を引っ張っていける力、つまりアカデミックな力、危機に際して率先して行動する力、人間的な魅力も持った人たちを育てることがエリート教育だと思っています。
船橋
具体的に、どんなカリキュラムを組むんですか。
浅島
1つは、教養教育においては、基礎科目というものがあります。基礎科目とは、全体で学ばなければならない知識です。それは全員がとる。その上に、総合科学というものが大きく分けて6つあります。全体を包括できるような、自然科学から社会科学、人文科学、倫理学まで含めるように大きく6分野に分けてあります。
その上に、少人数のゼミや、主題科目というようなものまで、全部入れると教養学部には2000コマ以上のカリキュラムがあります。
学生たちは、その中から、一体どういうものを学べばいいか、ということでしょう。1つの問題を挙げますと、多くの大学の学生は、例えば何々学部の何々学科というところに入るわけですが、東京大学は、文科1、2、3類、理科1、2、3類というふうになっています。
大学で勉強してみたら、高校生のときに考えていたのと違う、もっとおもしろい人に会ったり、もっと新しいものを見つけたり、といったことがあります。そういうときに、各個人の能力をさらに伸ばしたり、専攻を変えたりするシステムを持っているんです。例えば今年は、文1の学生、つまり法学をやろうと思って入学した人が、医学部に進学するんだと。それは大きな変化なんです。そういう柔軟なシステムを持つことで、人間性を育て、個人の能力を伸ばしていけるのではないかと。
東京大学は、それぐらいのキャパシティを持った人を育てる。そして、その個人を伸ばして、リーダーとなっていける人を育てる、そういうことがこれから必要なことだろうと私は思っています。文系の人がお医者さんになれば、今までの医学部だけで来たお医者さんとは全く違った考え方ができるのではないか、そういうことがこれから必要になってくるなと思っています。
船橋
互いの違いや、あるいは、他者のパースペクティブといったものも受け入れて、共存して、刺激を与え合う。そういうことにもつながるんでしょうね。
宮田さん、どうですか。
宮田
ありがとうございます。さっき2度ほど発信したんですが、無視されたものですから。
そうですね。私どもはエリートしかとっておりません。ですから、ほとんどが浪人生です。私は大変運良く2浪で入りましたが、同級生は16浪です。
なぜそこまでやるかというのは、つまり無から有を生もうとしているわけですよね。そこら辺、先ほど2回発信したのは、ランキング云々の話があったときに、何と愚かな話をしているんだという気がいたしました。
そして、私はまず、泣けることというのがすごく大事だと。うれしさに泣ける、悲しさに泣ける、喜びや喜怒哀楽がありますね。本気で泣けた人、それがエリートだと。それが伝えることのできる人なんですよ。
そこまでいかないと、芸大の話をするわけではございませんが、入れませんし、入ってから出れません。なぜかというと、わからないわけで、常に横で仕事をしているわけです。常に横で吹いているわけです。自分が劣っているか、すぐれているか、周りの人じゃなくて、自分の中で。
そういう誇りがいい意味であるわけですので、決しておごっているわけでもなく、人を差別してるわけではなく、さっきの話に戻りますけれども、ランキングにしても、そうそう、総長が国大協の会長ですのであえて言いますが、ランキングしましたら、うちの大学は八十幾つある大学の中で八十何番目でございます。つまり、ふるいが違うんですね、それぞれのふるいが。
皆さん、日本人としての誇りを持ってください。何を言いたいか。どこに自分の中にエリートがあるかを探してください。泣ける自分の中にエリートが必ずあります。

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