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シンポジウム「歴史和解のために」

第1部 討論 「何が起きているのか」(3)

写真歩平氏
写真朴裕河氏
外岡
ありがとうございます。
それでは、歩平さん、お願いします。
歩平
中国から参りました歩平と申します。私の専門は中日関係史です。
山室先生の報告、ありがたいと思います。独学している日本語で自分の感想を発表しますから、ちょっと心配しています。
第1は、先生の第1と第2のグローバリゼーションという視点は、私は大きい示唆だと考えます。中国では、80年代後半から90年代に入ると、改革開放政策によって、戦争史料の公開や戦争に関する記念碑と記念館の建設のラッシュが始まりました。例えば、北京や南京やハルビンなどにいろんな記念館が建ちました。
歴史研究の面では、東京裁判で免責された細菌戦、毒ガス戦についての研究、強制連行と従軍慰安婦についての調査もそのときから始まりました。ある方が、これは中国政府がしようとしている反日教育の表現だと指摘しましたが、実は、これこそ冷戦後の国民の個人が自由と権力を自発して強調している表現です。
●自国中心だった研究、変わってきている
2番目は、歴史認識の共有について。80年代半ごろから、戦争時代の歴史に対しての研究は2つの特徴があります。1つは、そのときの研究が自国中心として、外国の史料と研究現状の把握は不十分です。もちろん、今はこの状況はだんだんに変わってきました。もう1つは、中国、韓国の歴史研究は、日本国内の戦争責任と海外の責任を認めない人に対して、抵抗的、論戦的な傾向があります。ですから、歴史認識の共有や歴史和解などはあり得ないという考え方を持っている方は多いです。
一方で、歴史認識を共有する努力も重要です。例えば、先ほど慶応大学の山田先生にお会いしましたが、山田先生をはじめとする、日本と中国、アメリカの学者の共同研究。もう1つ、私の友人である新潟大学の古厩先生が提出した「北東アジアの歴史共同像」という目標。先ほど山室先生が整理した年表の中には、もっと大きい、たくさんの努力もあります。また、歴史教科書の副教材の努力についての問題ですね。後で紹介したいと思います。
山室先生の提案について、私は大体賛成します。少し補充したいと思います。
1つは、今までは各国の歴史教科書を基本的に自国歴史を中心として編纂しましたから、このような歴史教科書の自国中心の視角を超えて、東アジアの視角を転換して、未来の世界に向けて新しい教科書を編纂することが重要です。しかし、教科書の編纂は難しいですから、とりあえず副教材の編纂をしましょうか。
2番目です。歴史視角の転換論について。いろんな問題がありますが、とりあえず学生さんですね。学生さんより先生の任務は重いです。重要です。先生と学校の教育の任務よりは、社会教育、特にマスコミ、メディアの責任が重要です。歴史研究者は必ずマスコミ、メディアと一緒に努力しなければならないと思います。歴史研究者とマスコミ、メディアの任務より政治家の責任は一番重要だと考えます。
外岡
ありがとうございます。
それでは、朴裕河さん、お願いします。
朴裕河と申します。
先ほど三谷先生が、近現代史はご自分の専門ではないというようなことをおっしゃいましたが、私は歴史の専門家ではありません。ここにいらっしゃる先生方の多くは、歴史家ですけれども、私は日本近現代文学を専門にしています。今、皆さんが自国主義を超えるべきとおっしゃいましたが、自国主義を支えるナショナリズムの問題を考えるにつけて、歴史もそうだと思いますが、特に文学というのは言葉を媒体として成り立つものとして、 ナショナリズムを強化することを助けたジャンルという問題意識から、こういった歴史問題にも関心を持つようになりました。
『和解のために』という本を書いていますが、それは、素人の立場から、歴史家や直接に歴史関連の被害者のための支援をする運動家ではないという立場から、外から見るとどのように見えるのかということを書いてみたものでした。きょうも、そういった立場から発言をするということになると思いますが、今は時間が5分ということで、あまりありませんので、まず山室先生のおっしゃったことに対して簡単に意見を申し上げたいと思います。
私が最後になりましたけれども、ほかの先生方がほとんどすべて賛成というふうにおっしゃいましたので、みんな同じく賛成ということになってしまったら議論になりませんので、あえて、誤解を避けるために先に申し上げておきますと、ほとんど賛成なんですけれども、あえてちょっと違った意見を申し上げたいと思います。
最初に、非常に大きな枠組みから、グローバリゼーションという視点からお話をしてくださいました。世界じゅうのナショナリズムが90年代以降に強くなった背景にグローバリズムがあるというのはよく言われることでもあります。特に日本の場合は経済的な問題もあって、いろんな不満、不安というのが、そういった形に反映されたというのはそのとおりだと思います。
ただし、確かにおっしゃるとおりに冷戦が終わって、そういったことになりやすくなったという状況はあるんですけれども、逆に、こういったナショナリズムによって、韓国でも日本でも言われている格差社会を強化するグローバリゼーションの問題が見えないような悪循環の構造に入っている。結局、同じことなんですけども、どこに重点を置いて見るかということです。
それぞれの国でいろんな背景があって、日本も韓国も中国も、90年代以降、対話が成り立たないような不幸な時代でありました。同じ時期に中国や、日本の中でも格差社会化が進み、韓国もやはりそういう状況下にあります。なのに、一部のエリートやマスコミによるナショナリズムをあおる言説はそういうことを見えないようにしてしまうのです。
2つ目なんですけれども、こういった歴史問題を考える際1つの望ましい基軸を持つべきだ、基盤というのを持つべきだとおっしゃいました。そのとおりだと思います。
そして、山室先生をはじめ皆様ほとんど望ましい、韓国人である私から聞いて望ましい認識を述べてくださいましたけれども、先ほどあげられた小泉首相の靖国参拝に賛成、反対が半々だという統計、その半々という数字はどのように受けとめられるべきでしょうか。つまり賛成する人が半分いるというような現状をどのように考えるかということです。
今おっしゃったようなあるべき基軸、正しい歴史認識というのは、やはりこの枠組みに入らない残りの半分に「これを受け入れろ」というようなことになるかと思うんですね。もちろん、結果としてそうなってほしいと思うんですけれども、やはりその過程で、単に向こうがすべて間違っているとみなしてしまうのではなく、今先生方がおっしゃったようになぜそういうふうになっているのかということも考えて、そういった結果に持っていくべきではないだろうかと思っています。
もう1つ気になりましたのは、日本はどのような国になるべきかという言葉でしたけれども、正しい日本というのを想定すること自体はいいんですが、やはりそういった誇り高き日本といいますか、責任をとってしまった日本といいますか、そういったことが最終地点になってはいけないのではないか。つまり、これまで逆の立場で歴史認識問題に反発してきた人たちも、日本の誇りを傷つけられるから反発したという状況があるわけですね。
ですから、やはり歴史を考えるときに、「正しい日本人」、あるいは「正しい日本」のほうへ持っていくのではない方向を目指すべきではないだろうかと思います。
時間がないので詳しくは言えませんけれども、後でもうちょっとお話しできればと思います。

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