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シンポジウム「歴史和解のために」

第2部 ジモーネ・レシッヒ氏の基調報告 「独仏教科書 半世紀かけ」(2)

写真ジモーネ・レシッヒ氏
独仏の教科書会議はその後、1967年まで定期的に、1980年以降は非定期的ですけれども、開催されてきました。こうした会議が隣国との相互理解、そして、信頼醸成に1つの重要な貢献をなしたこと、また、ほかの2国間教科書プロジェクトのはずみとなったことに疑いはありません。
しかし、その後の推進力と継続性というものはどうなっていたのでしょうか。新たな独仏協力、相互理解は政治からのお仕着せに過ぎなかったのか。それとも、草の根から育ってきたいわば市民社会の子供だと見ることができるのでしょうか。
まずは、戦後の世界の政治情勢が相互理解の追い風となったことは明らかだと述べておきましょう。冷戦開始後、旧宿敵同士は、といっても、ドイツの場合は当時の西ドイツのことですが、図らずも同じ側に立つということになったわけです。そして、敵同士が西側陣営の安定に政治的関心を持たざるを得ないという関係になっていったわけです。
とはいえ、ドイツとフランスの教科書づくりが再開された時点では、政府間の協定というようなものはまだ夢の話でした。最初にドイツとフランスの間で文化協定が締結されたのは1954年、そして、エリゼ条約はさらにその10年後に締結されたのです。ドイツとフランスの間でイニシアチブをとったのは教育者と研究者でした。後に発足する教科書委員会への道を開いていったのです。その中には、ポーランド、あるいは、イスラエルとの委員会もあります。ここでは根が一層深い過去と対峙する教科書委員会となっていきました。
●ドイツ・ポーランド教科書委員会の歩み
ここで、私の報告の第2点目に移りたいと思います。
こちらも世界の注目を浴びた、間もなくドイツとフランスの教科書以上に注目を集めるであろうと思われるドイツとポーランドの教科書委員会のプロジェクトです。これとドイツとフランスのプロジェクトを比較してみたいと思います。
このドイツとポーランドの委員会は今も活動中です。ドイツとポーランドの教科書委員会は1972年に発足し、1976年に最初の教科書勧告を共同で発表しました。それにより、フランスの場合よりははるかに高いハードルを越えたと言えます。
というのも、冷戦によってフランスはドイツの宿敵から同盟国に変わったということを先ほど述べましたが、これに対し、ドイツとポーランドの間には、かつてドイツ占領下における残忍な体制や残虐な犯罪、あるいはまた、逃亡と追放の恐怖という問題がまだ横たわっていたわけです。さらに、両国の政治体制にはおよそ越えられそうにない政治的、イデオロギー的境界線があったからです。これらの異なる体制がまたもや新たな敵国イメージというものをつくり上げ、新たな教科書にも書き込まれていったのが実情でした。
世界の政治情勢がドイツとフランスの間の不信を払拭する努力への追い風となったのに対し、ドイツとポーランドの間の溝は長く越えられないように見えました。ポーランドにおいてドイツ人が負った責任はあまりにも大きく、ドイツの過去の責任はあまりにも重く、ドイツ側の傷はあまりにも深く、冷たい戦争とその階級闘争のレトリックはあまりにも根強いものだったのです。
しかし、このポーランドのように権威主義的で市民社会を阻害するような国家が記憶の対立に関与してくる国においてすら、政治や経済の分野と並んで、教育者や学者らによる市民社会的イニシアチブが芽生えていきました。
当然このような対話は体制の溝を越えていかなければいけませんでしたが、このような対話が可能となったのは、ブラントとシェールというドイツの社民党・自由民主党連立政権の緊張緩和政策によるものでした。これで小さな窓が開けられ、2国間対話を推進するためにただちにこの小さな窓が利用されました。1972年に両国のユネスコ委員会が強力に推進する中、ドイツ・ポーランド教科書委員会が発足し、我が研究所が今もこの委員会の調整役を務めています。
しかし、両国とも、世論においてはドイツ・ポーランド史の取り扱いに関する勧告は極めて議論が分かれました。独仏間の合意がおおむね好意的に受けとめられたのと異なり、ポーランドとの共同文書は西ドイツの議会やメディア、学校で激しい論争を巻き起こしたのでした。
きっかけとなったのは、例えばヒトラーとスターリンの間に結ばれた独ソ不可侵条約であったり、第2次世界大戦後のドイツ国民のポーランドからの追放、そして、ソ連の役割といった問題の項目を取り上げずに省略してしまったということでした。つまり、政治的、歴史的タブーが論争の中心でした。妥協についての論争ではなかったのです。しかし、結局、こうした空白、そして容認できない妥協をめぐっての論争が隣国への注意を喚起し、両国の歴史への関心を呼び起こすことになったのです。
とりわけ両国の歴史学者の定例的な話し合いが体制の違いを越えて国際理解を推進しました。数十年に及ぶ共同作業を経て、政治的前提条件が異なるにもかかわらず、比較的イデオロギーにとらわれない、相互に尊重し合うという、およそいかなる楽観主義者も可能と思わなかったほどの雰囲気がつくり上げられたのでした。
全体として、国家の歴史政策と市民社会の行動との間のどこに境目を見出すか決めるのはほとんど不可能です。ドイツ・ポーランド教科書委員会は西ドイツの外交の転換なしにはまず考えられなかったでしょう。この委員会は象徴性に満ちた極めて政治的なプロジェクトであり、政治の力なくしては生まれ得なかったものです。1970年以前はそうしたイニシアチブはすべてすぐに根絶やしになり、当時は政治がいわば予防的にそうしたアイデアを葬り去っていました。つまり、政治的前提条件がおあつらえ向きでなければ、このようなプロジェクトは実現できないのです。独仏青少年議会ができたことといえば、そのプロジェクトをメディア向けに述べること、発案することでした。しかし、実現できたのは市民社会によってではなく、両国ともに政治のトップレベルがそのことを欲したからなのです。歴史の授業だけではなく、歴史政策が重要視されたのです。
しかし、それは一面に過ぎません。もう1つの面は、そのように後押しされた委員会が何年にもわたりほぼ自主独立で作業を進め、国境を越えて専門学術的議論をし、それが政治、世論にも届くところとなったということです。それは民主的条件のもとにあった西ドイツにおけるほうがポーランドにおけるよりももちろん顕著でした。
私が所長を務めますゲオルク・エッカート研究所の歴史もそれ自体が学問と世論、政治、外交と市民社会の相互関係を体現する歴史であります。ゲオルク・エッカートは教科書を通じて理解を図るという考え方に魅せられた人でした。しかし、占領軍の行政支援、先ほど述べた政治的前提条件、そして、ユネスコの尽力なしには、エッカートのイニシアチブは日の目を見なかったでしょう。
同じことが私どもの研究所にも言えます。その設立は1人の教授の個人的イニシアチブに負うものでしたし、存続できているのは政治の意志のおかげなのです。成立して24年後、そして、エッカートの没後1年たって、まずニーダーザクセン州が、そして、後にほぼ全部の州が費用を負担してくれることになりました。当研究所は学問的に独立しており、政治的には中立を保っています。この中立性なくしては、その信憑性、教科書研究ネットワークにおけるその位置づけ、国際的な教科書論争における仲介の機能はすぐさま色あせてしまうでしょう。

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