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シンポジウム「歴史和解のために」

第2部 討論 「何が 私たちにできるのか」(2)

写真三谷博氏
もう1つ、レシッヒさんのお話を伺っていてうらやましいなと思ったのは、やっぱり政府と知識人が協力できるということです。ところが、日本の場合はもうずっと戦後、敵対関係を続けてきたし、私みたいな政府に盾突く気は全然ない人間でも、「ああ、うちのおやじは困ったな」と、仕方ないから首相を批判せざるを得ないという、そういう立場に追い込まれてしまう。そんな状態ですから、政府の力を使ってとかは、ちょっといま無理だよと。仕方ないから民間で全部やっちまうしかないというのがもう現状ですね。これはやっぱり差異としてよく考えていただければありがたいなと思います。
あと、日本の中に記憶の問題、歴史教育の問題というふうに問題が浮かんできたときに、慰安婦にしても侵略戦争にしても植民地支配にしても、すぐ教科書の問題にするというくせがありますね。これは歴史的に家永三郎先生の裁判というのがあって、これが非常に強い記憶として残っているから自然にそう考えてしまうわけです。それは一方の問題としてあります。
しかし、他方では、はっきり言って韓国や中国の場合、韓国はつい最近までと限定したほうがいいと思いますが、教科書の記述内容というものは政府の歴史観の表明されたものであると受けとめる。日本の現在はそんなものではないんですね。我々教科書を実際つくっている人間は、政府の意向に沿ってというようなことはあんまり考えてなくて、独立の歴史学者としてこういうふうに書いたらいいだろうと思って書いているんですね。大枠は設定されているけど、中身はかなり自由であると。したがって、教科書会社ごとにかなり内容が違っているはずなんです。幅は実は少なくても違っている。
それで、中国や韓国の場合は教科書に書いてあるものが正史というか正しい歴史であって、それをめぐってどうしよう、こうしようという議論をやるというふうになっているんだけど、日本ではそうできない。もうこれは執筆者が自分の良心に従って、これはこっちのほうがよい歴史であろうと思って書いているだけだということですね。したがって、この3国の間で話が通ずるためにはかなりの長い年月がかかるだろうというのが現実であります。
それから、レシッヒさんのお話で非常に共感するところがあります。それは国民史というものには限界がある、それをよくわかってなきゃいけない、ということです。これから先、我が国は、我が国はというようなことばかりを大人が語り、あるいは、子供に教えるということでは、はっきり言って日本だけの利益をとって考えてみると、日本が孤立して世界から友人を失ってしまうという可能性は十分あるので、それはまずいよと。よくそれを考えましょう、という点は私も同意です。
ただし、国民史という枠を、じゃあ、取っ払えばいいのかというと、そうもいかないんですね。というのは、デモクラシーという政治制度はあるところに居住している人たちが長期的視野を持って協力して法律をつくり、慣習をつくり、それを守っていくという必要がある。そうすると、どうしてもそこに長期滞在している人相互の団結心というものが必要になる。そうすると、ナショナルの枠というのは決して抜けないわけです。
そこには欠陥も、もちろんあります。例えば国内の少数派を無視しがちで、例えば在日の人々は歴史から排除されているわけです。どこにも教科書に記述がない。そういうふうに少数派を排除する歴史というのはおかしい。また、国民史と国民史は衝突しがちで、例えば今の中国と韓国が高句麗とか渤海の歴史をめぐって争っていますね。そういうふうに国民史には大きな限界があるわけです。
日本の場合、どうしても申し上げておきたいのは、近代日本のナショナリズムには非常によい面と悪い面があるということです。明治維新とその後を含めて、おそらく政治的理由で日本人同士が殺し合った数というのは3万人前後だと思います。西南戦争が終わった後、実は僕、勘定してみたんですけど、500人ぐらいしかいないんですね。これは世界の近代国家でものすごく少ない数なんですよ。
それに対して、日本人は外国人とみなした人々に対してはおそらく1,000万人以上、殺しているでしょう。極端な差がある。ナショナリズムのいい面と悪い面とをほんとに日本の近代史というのは体現していると思いますね。
その場合に、じゃあ、どこに問題があったのかというと、日本人とそれ以外は全然違う存在であるという思い込みが問題なので、僕自身はそれを克服するために東アジアの地域史をつくっていると、さっき申しました。もう1つ根本的なところから考えたいのは、我々日本人は外国人の名前を覚えるときに西洋系の名前は覚えやすいわけです。ところが、韓国人や中国人の名前というのはほとんど覚えられない。何度聞いても頭へ入らない。何でこの差異が出てくるのか。それは、子供のときから西洋の翻訳ものを読んでいるから、その人々の名前は割合なじんでいるんですが、隣国の物語は読んだことがない。これは全く日本と韓国と中国、同じです。全部同じです。西洋人の名前は覚えやすいけれども、隣の国の人間の名前は全然覚えられない。
これを崩していく必要が僕はあると思うんです。一番効き目があるのは、アニメとかテレビとか漫画とか大衆文化が一番いいんですが、しかし、学校教育でも、例えば小学校の国語の教科書、各国の国語の教科書に隣の国の少年少女が主人公の物語を入れて、隣の国の子供たちだって我々と同じだよというふうに自然に考えさせて、そして、その名前も覚えやすくするというような、そういうこともやっていいんじゃないか。だから、歴史の教科書よりもっと基本的なところから出発してはどうだろうか、というふうに考えます。
ちょっと長くなりましたが。
外岡
ありがとうございます。
非常に興味深いご提言をいただきました。
それでは、鄭在貞さん、「韓日歴史共同研究の推進」というテーマでお話をお願いします。
●日韓で共通教材作成、和解の希望捨てるな
私は第1部で、この20年ほど韓日歴史対話に参加してきたという話を申し上げました。これからこのことを軸にして幾つかの問題提起をしてみたいと思っています。
私の活動は主に2つに分かれます。1つは民間次元での歴史共通教材の開発、もう1つは政府支援の歴史共同研究に携わったことです。
まず、韓日歴史共通教材の開発について申し上げたいと思います。
私が勤めているソウル市立大学とここに参加している君島和彦さんが勤める東京学芸大学は去年の3月1日に『韓日交流の歴史』という本を同時出版しました。我々が10年かけて一生懸命やってきた大がかりなプロジェクトがようやく実を結んだということです。これを韓国と日本のマスコミと世論では非常に高く評価しました。特に韓国では大手の新聞と放送が社説を書くとか解説をするとか、韓日の相互理解を深めるのに何らかの影響を与えたと思っています。

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