●国連難民高等弁務官として実感したこと
緒方 私自身が、どうしてこういうことにかかわったかということを少しご説明いたしますと、国連難民高等弁務官として10年過ごしました時代は、何が一番大きかったかというと、内戦だったのです。1990年代は内戦の時代でした。
その内戦に対応するに当たって実感したのは、内戦が起きるのは、国家が十分機能していないことが原因になっているということです。国家が自国の人々を守っていないのです。守っているどころか、ときには国家自体が原因であるということが、しばしばあった。
そういう中で、もう少し人々に焦点を当てた形で、すべての安全保障を考える、すべての政策を考えていかないと、ほんとうに救われないのではないか。こういうことをしばしば感じたわけでございます。
私が国連難民高等弁務官をいたしておりました時代は、難民の数が一番増えまして、1995年、96年あたりは、2600万人。これは全部が難民ではないのです。難民と国内において難民化した国内避難民。そしてまた、難民ではあったが、自分の国に帰りつつあるような人たち。こういうものをみんな合わせて、ともかく私のオフィスで、ある程度お世話をしなければならなかった人が2600万人。これは、ちょっとした国の人口と同じです。
それなら、どうしたらこの人たちが難民ではなくなるのかといいますと、常にその人々の国がよくなった場合なのです。統治と自治が完成したとき、先ほど申し上げたような「人間の安全保障」の枠組みが少しでもできつつあるときは、難民は帰っていきますし、難民問題は解決するのです。
ところが、それに対応するような紛争解決のメカニズムもありませんし、考え方としてもなかったのですね。そもそも紛争についての考え方は、国家と国家の対立という形でしかなくて、私も政治学者だったこともあるのですが、政治学の中でしか対応してこなかった。
その不足をどうやったら補っていけるのだろうかという疑問から、私は難民、「人間の安全保障」という概念をもう少ししっかりつくって、安全が非常にそこなわれている、たくさんの人々を助けるひとつの糸口にしたいと考えたわけでございます。
そこで、2年間、いろいろ努力しまして、こういう多少は理論的、それと同時に実践的な形でも、答えを探ってまいりました。
●アフガニスタンの難問
たまたま私が国連難民高等弁務官の間に解決できなかった大きな難民問題、これはアフガン難民だったんですが、私が国連難民高等弁務官になったときに、600万人以上いました。これはソ連の占領等があったせいなのですが、ソ連が撤退した後も内戦が続いて、最後にやめるときも、まだ300万人ぐらいの難民がいた。スケールという意味では、一番大きい問題でした。
その難民の問題を解決する方向が出てきたのは、偶然かもしれませんが、アフガニスタンに対する軍事行動でした。アフガニスタンでは、いろいろな内戦が続いていたために、統治をするものが存在しなかった。そんな中でアルカイダ、あるいはタリバンというような勢力が出てきて、この国を根城にしたテロというものが広がったわけです。
そのテロに対応するために、対テロ戦争という形で、アフガンに対する軍事行動が行われる。そして、アフガニスタンの政治的、軍事的問題、そしてまた復興の問題が表立って出てきた。
日本もアフガニスタンの復興には、以前からかなり関心を持っていましたし、それにタリバンが出てきたときに、紛争解決のための交渉の世話などをしたこともあって、大きな役割を果たすことになりまして、私もそれを手伝ったわけです。
今、このアフガニスタンの話をいたしますのは、アフガニスタンの復興をどういう形で考えていけばいいかというときに、先ほど申し上げた人間の安全保障委員会が考えております枠組みが、実にいい指針として使えることがわかったからです。
一つには、アフガニスタンは中央政府がほとんど存在しないに等しかった。それでも、国連が主導して暫定政権をつくって、その暫定政権が中央の政府として活躍できるような形をつくりました。つまり、中央政府を機能させる法律をつくる。通貨をきちんとつくる。それから、行政府、役所もつくる。私が最初にカブールへ行ったときは、役所は建物がある役所とない役所とあって、電話のあるところはほとんどなくて、戦争の前からいた役人に給料も払えない。そういう中で、政府というものを始めなければならなかった。上からの仕事がたくさんあったわけです。
●復興に必要なもの
それと同時に、アフガニスタンは90%農業国でしたが、タリバンの政策のもとで農地は大変荒れてしまっていた。あらゆる開発の指標を使ってみても、アフガニスタンはほとんど最底辺にある国だったわけです。
ですから、いろいろな国々から、女性の教育であるとか、医療であるとか、あるいは考え方であるとか、あらゆることを手伝いましょうという動きがあり、下からの開発を非常に熱心に行ってきました。それをどうやってうまく合わせるかという問題もありましたが、アフガニスタンの復興のためにはいろいろな努力が続けられてきて、私は、かなり進歩したと思っています。
しかし、まだまだすることは多いのです。なぜかというと、この戦争から復興への過程というものを見ると、このごろは非常に不安定な形を経る場合が多いのです。日本の場合は第二次大戦で負けて、平和条約のもとで復興したわけですが、今は必ずしも、完全に戦争が終わって、平和条約を結んで、日本のような復興ができるわけではなく、ひとまず戦争が終わって、比較的平和な状況が出てくる前に、やり方によっては、また紛争に戻ってしまう場合が数多くあるのです。今もそういう状況が見られるわけです。
そういう中で、どうやって、きちんとした国をつくるかといえば、まずは安全を保障すること。そのためには、軍隊の駐留というようなものがとても必要なのです。それからやはり、何らかの形で中央政府、政権というものをつくっていくこと。そして、それを下支えするために、復興が目に見えて国民の間で広がっていくこと。そういうものが一体になって初めて、ひどかった紛争が比較的安全な平和への道をたどっていく。これはかなり長い過程になると思いますが、そのための努力、そのための組織づくりというようなものが非常に急がれている。
そのためには、最後に一言申しますと、今までの国家間中心の縦割り的な行政――これは国際機関の場合もそうだと思いますし、国内のさまざまな官庁もそうなのですが、縦割り行政ではおそらく対応できない問題であって、横断的なさまざまな協力が必要になってくるだろうと思います。
●世界に広がる報告書
この人間の安全保障委員会の報告の最後に、一体何を提案しようかと考えました。新しい国際機関を提案しようか。人間の安全保障機構か、あるいは常設の人間の安全保障委員会か、いろいろ考えましたが、どれを言っても、おそらくうまくいかないだろうということもありましたし、それに、そこまでアンビシャス(野心的)でもなかったのでしょう。私どもとしては、むしろいろいろな機関、複数の国際機関が一緒になって仕事をする、そういう形の仕事のイニシアティブを取り、あるいは共同作業というものが非常に大事だという考えのもとで、それが進んでいくのを何とか支援しようという提案を行いました。日本政府が今、人間の安全保障基金というものを国連に出しておりますが、その基金の使用に当たっても、複数の組織が一緒になって、今もちょっと申し上げたような安全、復興、政治といったいろいろな問題を横断的な協力で解決していこう、今後も推進していこうと考えたのです。
そういったところで、今、人間の安全保障委員会の作業は一応終わりまして、そして、きょうは日本語版の発行を記念するシンポジウムがございましたが、つい先週は、パリでフランス語版も発行されました。今のところ、英語、スペイン語、フランス語、日本語。そして目下、かなり進んでおりますのが、ロシア語。さらに、アラビア語も準備中です。こうしたそれぞれの言葉が使われる地域には広がりがございますから、そういう形で世界的に、今申し上げた考え方を基にした協力体制を広めていきたいと考えているわけでございます。
この過程で、日本政府、外務省、そして朝日新聞社など、方々からいろいろご支援いただきました。お礼を申し上げると同時に、これから、これを契機に皆様も、この報告書を勉強していただきたいと思います。あるいは疑問もたくさんおありになるかと思いますし、賛成していただけない部分もあるかもしれませんが、そういうことについてのディスカッションを積み重ねていきたいと思います。
そして、何と言っても、これを現実化していくことに、ご賛同いただくことをお願いして、ごあいさつにかえたいと思います。
ありがとうございました。(拍手)