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フォーラム「うたおう 子どもの権利」
【冒頭発言】(2)重松清氏

 川名 次に問題提起をしていただくのは作家の重松清さんです。水島さんは2人のお子さんのお母さんで、衆議院で初めて産休をとった人でもあるんですが、重松さんも2人のお子さんのお父さんです。日々、父親としても悩みながら作品に『エイジ』あるいは『ビタミンF』『疾走』というような作品に子どもたちの内面を描いていらっしゃいます。では、重松さん、よろしくお願いします。(拍手)

 重松 清氏

 重松 重松です。こういうシンポジウムの場では、僕は専門家ではありませんので、一般の素人代表としてここに座って、大概、専門家の皆さんから「おまえは物を知らない」とか集中砲火を浴びてしまう役回りです。特に今回の虐待の問題や子どもの権利という問題については、上の世代から見れば本当に頼りない、あるいは多々問題のある父親の端くれとして、今日はおしかりを受ける覚悟でここに座っています。その覚悟は一応あるんですけれども、やはり言いたいことは言っておきたい。

●「許せねぇ、児童虐待」では解決しない

 先日、厚生労働省が虐待防止のキャンペーンというかポスターをつくりました。皆さんもご存じかもしれませんが、泉谷しげるさんがポスターに登場して「許せねぇ、児童虐待」と非常に怒ってらっしゃるわけですね。泉谷しげるさんって僕はすごく好きで、ファンなんでけれども、この「許せねぇ、児童虐待」というコピーで児童虐待を防ごうという発想なんですね。

 言ってみれば、頭ごなしに、あるいは言語道断、問答無用に児童虐待はよくない。それは確かにそうなんです。これは絶対にそうなんです。やってはいけないんです。しかし、そういう問答無用、頭ごなしに「許せねぇ、児童虐待」というフレーズだけで物事は解決していくんだろうか。

 児童虐待をするかもしれない親の1人として、ちょっと待ってくれよと。そういう単純な一喝で「はい、わかりました。児童虐待をやめます」というふうになるほど、今の親御さんたちの置かれている精神的な状況というのは、そんなに単純じゃないんじゃないかと僕は思っています。(拍手)どうもありがとうございます。嬉しいです。

● 快適さへの欲求が肥大

 僕は今、41歳です。言ってみれば日本の高度経済成長期に成長した世代です。僕たち以降の世代というふうに言ってもいいと思うんですが、様々なものが肥大してしまった。大きくなってしまった、膨張してしまった。そのうちの1つに快適さがあると僕は思うんです。それこそ僕たちの前の世代は、とにかくお腹一杯御飯を食べるということが幸せだった。それから、雨露をしのげる家がある、あるいはあったかい服を着れるということが幸せだった。

 ところが、僕たちが物心ついてから日本が急激に豊かになった。夏は暑暑いのが当たり前なんだけれども、扇風機を買おう。でも、扇風機じゃまだ物足りない。エアコンを買おう。ところが、エアコンは体によくないからマイナスイオンをつけようとか、揺らぎをしようというように、どんどん快適さを追求していった。

 その快適を得るということが幸せであるという発想だったと思うんです。その結果として、僕たちは不快である、快適でないという状況に非常に弱くなってしまっているんじゃないかと思うんです。

 児童虐待にもいろいろな段階があり、あるいはいろいろな背景がありますから、ひとしなみにはもちろん言えないんですが、よく報道される例に「夜泣きがやまない。夜泣きがうるさいのでカッとなってせっかんして死に至らしめた」「聞き分けがない」「懐かない」などありますが、様々な理由で暴発的に暴力を振るって死や障害を与えてしまう。

 寝ようと思っていたら夜泣きをしてしまう、あるいは、しつけようとしても全然、言うことを聞いてくれない、懐かない。これは確かに不快です。快適か不快かといったら不快のほうなんです。しかし、その不快を受け入れるということが、本当は僕たちが生きていったり、大人になったりするというはずだったのが、いつまでもこの快適さを優先する。僕たちの少年時代だったら、不快であることはみんな遠ざけてしまったり、あるいは自分からノータッチで済ませて、とにかくいつも自分が快適である状況を選択できました。ところが、親になって赤ん坊とつき合うと、もういや応なしにその不快さを受け入れなきゃいけないんですね。

●理想も肥大してしまった

 肥大してしまったもののもう1つが、先入観というか理想と言ってもいいと思うんです。

 いろいろな情報がいっぱい増えてます。再び厚生労働省のポスターの悪口を言ってしまうんですけれども、何年か前にSAMさんという安室奈美恵さんの前のダンナさんが登場した「育児をしない男を、父とは呼ばない」というのがありましたね。僕、いつも思っていたんですけれども、あのポスターの写真というのはスヤスヤ眠っている赤ちゃんを抱っこしているんですよ。それだったら俺でもできるなあと思いました。

 本当の育児っていうものは、それこそ赤ちゃんのおむつを取りかえる時のウンチの臭いとか、足をバタバタさせるのを押さえつけてお尻をふくことなど。そういうものを前面に出さないと、何か育児というものがいいとこどりというか、そういうイメージで僕たちは考えさせられているんじゃないか。

 赤ちゃんが登場する雑誌のグラビアやコマーシャルを見ていても、みんな可愛いです。みんなニコニコ笑っています。何かみんな幸せがここにあるという理想なんですね。これは理想形です。

 しかし、僕の経験からいって、赤ちゃんってニコニコ笑っている時間よりも泣いている時間のほうが長いんですね。これはあくまでも24時間のうちの一番いいところだけをとっているんだよという相対化ができず、スヤスヤ眠っている赤ちゃんをベビーベッドに寝かせて、お父さんとお母さんが見おろしてニコニコと笑う姿が幸せのはずだったのに、何でこの子はこうなんだ、何で我が家はこうなんだとなってしまう。

 コマーシャリズムというものに押しつけられてしまった理想を無批判に相対化できずに自分の中に取り込んでしまって、それがどんどん肥大していき、理想である母親、理想である父親、理想である我が子と現実とのギャップに苦しんでらっしゃるという人もたくさんいるんじゃないかと思うんです。

 犯罪に至ってしまうような虐待をしている親御さんも、もちろんいらっしゃいます。しかし、それ以上に、自分が今やったことは虐待なんじゃないだろうかというふうに悩んでいらっしゃるお父さん、お母さんもたくさんいると思うんです。

 これは果たしてしつけなんだろうか、虐待なんだろうか。わからなくなって、本当はもっと優しくならなきゃいけないのに、それができない。そういう現実と理想とのギャップに苦しみながら育児をやってらっしゃる。その時に理想と現実、肥大してしまった理想をいかに現実と折り合いをつけていくかというのを僕たちは学ばなきゃいけないんじゃないかと思っています。

● 自分というものも肥大

 それから、もう1つ、これも世代的な問題かもしれませんけれども、僕たちは親になっても自分というものが肥大しっぱなしなんじゃないだろうかと思う時があります。「自分らしさ」「自分らしく生きたい」「自分の夢を実現する」「自分探し」というように、80年代以降、「自分というものを大事にしよう」「本当の自分がどこかにある」という風潮がすごくありました。

 仕事1つをとってみてもそうです。二昔前だったら、仕事というのは生活の糧を得るために頑張っている、こういう表現はよくないんですけれども、女房や子どもを食わせるためにお父さんは頑張るんだというようなものがあった。ところが、80年代の転職雑誌なんかのキャッチフレーズを見ていると、自分探しの、自分らしさを発揮するために仕事を探す。今の仕事では自分らしさが発揮できないから転職するという、すごく自分というものが大きくなりました。

 もしかしたら、子どもを産んで育てるというのも何か自己実現の1つであったり、あるいは、子どもが産まれても自分らしさを捨てたくない、肥大した自分を減らしたくないという思いがどこかにあるんじゃないか。もちろん、二昔前の子どもたちのために自分を犠牲にするという発想がいいとは絶対言いません。やっぱり自分をしっかりと持って、言ってみれば出産後も仕事を続けたほうがいいと思うし、子どもがいるということが1人の人生に対するマイナス要因になってはやっぱりいけないと思うんです。

 ところが、どうも今のいろいろな風潮を見ていると「子どもが小さいうちは海外旅行に行けないからすごく嫌だ」。それから「子どもを産んだら太っちゃって、こんな自分は自分じゃない」とか、少し自分というものが大きくなり過ぎているんじゃないだろうかと思うんです。

●肥大によって生まれた死角

 僕は、神社に行くと絵馬というものをよく見るんです。それから、七夕の笹の短冊ですか。あそこにある思いって僕はすごく好きなんです。例えば短冊に、お子さんだったら「受験合格」とか、「算数で100点とれますように」とか、「運動会で1等をとれますように」という自分のことを願い事に書きます。

 ところが、結構、お父さんやお母さんって「我が家全員が幸せでありますように」とか、「みんなが元気で幸せな1年でありますように」というのをお書きになる例が今でも多いんです。短冊にお父さんが「部長になりたい」とか、お母さんが「あと3キロやせたい」とかって書く人はいないんです。やはり願い事っていったら我が家の幸せであったり、我が子の幸せであったり、そういう部分ってみんな持っているんだなと思うと、僕はうれしいんです。

 僕も絵馬に「今度の本がもっと売れますように」って書くようなお父さんにはなりたくないと思っている。それでも、肥大してしまう自分というのもある。肥大してしまった自分や理想や、それから快適さへの欲求。いっぱい肥大してしまうと、当然そこには死角っていうものが生まれます。盲点というか、死角が生まれます。

 先日の六本木ヒルズの自動回転ドアに犠牲になったお子さんが死角に入ってしまったから安全装置が作動しなかったんじゃないかという報道を見ると、ああ、本当に象徴的だなと思うんです。もしかしたら、戦後――本当に戦後というスパンで考えていいと思うんですが――いろいろなものが肥大してしまって、そこに死角が生まれた。もしかしたら、赤ちゃんや子どもというのは、その死角に入ってしまっているんじゃないか。これは僕たち一人ひとりの意識の中でもそうだし、先ほどイブさんや水島さんがおっしゃったような社会のシステムの中、それから行政の中での死角になっていることはいっぱいあるんじゃないかと思っています。

 様々な視点を持って、いろいろな方向から光を当てていけば死角は生まれないはずなんです。そのためにどんな光を当てていったらいいんだろうか、というのがおそらく後半の討論にも登場すると思いますので、そこを僕からの問題提起、親の端くれとしての本音混じりの問題提起としてここでご報告しました。(拍手)

 川名 重松さん、ありがとうございました。余り立派ではない親の等身大のお話を聞きながら、私も、もう20年以上前になりますが、たった1人の子どもを育てあぐねていた頃のことを思い出しました。その頃、育児休業というのもありませんで、産後2カ月から職場に復帰し、保育所も早くお迎えに行かないといけないので、保育所の後、ご近所に預けるという二重保育でした。10時頃になっても仕事が終わらなくて仕事を持って帰って、子どもを抱っこしながら子守歌を歌うんですけれども、早く寝てほしいと思う時に限って寝ないものです。子守歌のレパートリー、知っている限り5つぐらい歌ってもまだ寝ないと、思わずベランダから投げ落としてやろうかしらと本当に思ったことがありました。

 そんな体験があったので、子どもへの虐待と聞いても、それは人ごとでなく、私も鬼の親になったかもしれないといつも思ってきました。本当に子どもっていうのは思うようにならないもので、その子どもとどうつき合っていくかということは生涯のテーマだなと思っています。少し学習を積んで、今ならうまくやれると思うのに、子どもは残念ながら寄りついてくれないので困ったものだと思っております。


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