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連続シンポジウム「転機の教育」第1回 「教育の何を変えるのか」

【基調講演】 ロナルド・ドーア氏(1)



 ロナルド・ドーア氏

 司会 それでは、基調講演に移ります。

 本日、海外からお招きしておりますロンドン大学名誉教授のロナルド・ドーアさんです。(拍手)

 それでは、基調講演をどうぞよろしくお願いいたします。

 ドーア 皆さま、こんにちは。

 先ほどご親切な紹介をいただいたドーアでございます。

 きょうは非常におもしろそうなシンポジウムに参加させていただいて、光栄に思っておりますが、なるべくおもしろいようにするというのは私の役割であると言われています。

 「教育の何を変えるのか」という題ですぐ頭に浮かんできましたのは、アメリカのことわざです。

 ちょっといかがわしい英語ですが、If it isn’t broken, don’t fix it.

 訳せば「壊れていなければ、いじらないほうがいいよ」ということなのです。

 ところが、それは日本であまりよく通用しないような考え方ではないかと思います。

 というのは、日本人は儒教思想の影響なのかは知りませんが、とにかく自己満足することは最もいけないことであって、しょっちゅう改良していなければならない、というような気持ちになるのが普通の日本人ではないかと思います。

 ちょうどけさの日本経済新聞は、朝日新聞というライバルのシンポジウムを先取りしようという意味だったのかは知りませんけれども、社説に「義務教育をどう変えるべきなのか」を書いています。その中で、学校教育をめぐって、この間、強まる外からの改革圧力に危機感を募らせた文部科学省が、義務教育の再定義を含めて組織防衛を図る色合いが強くなりましたと。とにかく、外から来る改革の圧力が非常に強いのです。

 ところで、何を改革するのか。

 いつだったか、小泉首相の最初の国会における所信表明を読みました。たった25分間の所信表明なのだけれども、その中で「改革」という言葉は、まさに36回も出てきているのです。

 何を改革するかというと、36回の中で17回が「構造改革」だったのですが、しかし、まず改革は、どこが壊れているかの判断から出発しなければならないということはこのシンポジウムの趣旨ではないかと思います。

 改革について言えば、過去を振り返ってみれば、いろいろな改革をやった戦後、私が東京・上野の池之端の小学校で調査させていただいて、新しい民主主義的なクラス代表の選び方などを見せていただいてからもう51年になりますけれども、その半世紀の間に何回も日本の改革が行われています。

●機会均等と能力差

 ところが、改革の結果は、必ずしも意図した、予期した結果ばかりではなかったのではないかと思います。

 その多くの教育制度改革の意図は、少なくとも最近まで平等主義的な色彩が強かったのです。あまり「平等主義」という言葉は、さほど前面に出ていませんでしたけれども、「機会均等」という言葉はよく言われています。

 今ごろ「平等」という言葉は、ほとんど「悪平等」という用語でしか使われない。「悪平等」があるから「善平等」もあるはずだと思うのですが、とにかく今ごろ聞くのは、その「悪平等」だけなのですが、いろいろな平等を図るための改革が予期しないような結果を来たした場合が多いのではないかと思います。

 50年前は戦争直後で、中学校及び小学校でも、教育者として非常に重要な、最も難しい問題の1つは、いろいろな能力差です。

 同じクラスの子どもを対象にして、子どもの学力差をどうやってよくできる子とできない子とを一緒に教育するかという、非常に大きな問題が戦後のすぐ後の解決として、学級を能力別に編成する風習がかなり普及していたようです。1940年代の終わりごろです。

 ところが、それに対する反対の声がもともとあったのです。甲乙丙で丙の学級に押し込められる子どもが劣等感を感じるということは、前々から非常な弊害として、そして問題として認められているのです。

 しかし、1950年代において、日教組の教研集会を重ねるにしたがって、ますますそれに反対の声が上がって、そして教育者が先天的能力差の恒常性というのでしょうか、つまり努力によって変えられないものとするような教育思想は、本物の教育者が持つべき思想ではないという考え方が一般的になって、結局、能力別学級編成が1950年代の終わりになると、全くなくなったのです。そして、子どもの学力差を教育問題の中心的な問題として論ずることは、いわばタブーになったのです。その能力別編成を廃止することが1つの改革だったのです。

 ところが、その結果とは何であったかといいますと、やっぱり中学校ではみんな能力別に扱われない。そして、子どもが将来つける職業を決定的に決めるのが高校入試、ということになってしまったのです。

 その結果として、中学校の2年、3年の教育が非常に高校入試の準備に集中するようなものになってきたのです。

 その結果はいろいろありまして、1つは、本当の人格涵養のための教育でなくて、全く受験勉強になってしまうのが、例えば教育の本来の使命を裏切るようなものになる。 そして、もう1つは、とにかくいい高校になるべく優秀な子どもを入れようと思って、先生が余計学力の高い子たちに重点的にかかわり合って、そして学力の低い子たちはなおざりにされた、そういう弊害もある。

 そういうことに着目して、東京都の教育長だった小尾乕雄(おび・とらお)さんが先頭に立って、高校入試の制度を変えました。それまで都立日比谷高校に最も優秀な生徒が集まるような状態だったことが一番いけないというので、学校群制に高校入試制度を変えたのです。

●公立から私立へ

 ところが、その結果はどうであったかといいますと、やはり中流家庭の親たちは、今まで自分の子どもをなるべく公立の日比谷に入れようと思っていたような裕福な家庭の子どもたちは、みんな私立に行ってしまったのです。

 それで、公立高校と私立高校とバランスが大きく変わっていきました。朝日新聞社の方に調べていただきましたが、1968年に東大合格者を最も多く出した高校は、ベスト20校をとれば、1968年には公立高校が11校、私立高校が6校、国立附属高校が3校だったのが、35年たった今年は、公立高校はたった2つ、そして私立高校が16、国立附属高校が2つという、非常に大きな、全く予期しなかった結果がありました。

 そして、第3のエピソードは何かといいますと、1975年、高等教育改革で大学の設立の規定を新しくしたわけです。

 教育機関を大都会に集中させるのではなく、なるべく分散させるという意味で、それ以後、東京などには新しい大学を設立せず、地方に設立するということになったのです。

 それから4年後、共通一次という新しい大学入学のための試験が導入されました。その共通一次も、地方の子どもと都会の子どもの学力が平等な一定の基準によってはかられるようにするという意味で、やっぱりそれも平等主義的な意図を持ったもう1つの設定だったのです。

 ところが、その結果としてどういうことになったかといいますと、やっぱり共通一次の成績を大学入学にどういうふうに使おうか私立大学の自由になっていました。だから、国立大学でやっぱり5教科7科目の試験を受けなければならない。ところが、私立は理科系が3か4科目、文科系は3か4科目に絞ることができたのです。

 そうすると、やはり高校の初めから、高校に入ったところから私立を目指すコースと公立を目指すコースが分離されまして、そして、私立の高い授業費が悠々と払えるような家庭の子どもたちがその私立へ行くようになって、その結果として偏差値で入学生の水準、「質」と言えばおかしいのですが、偏差値=質という競争の全く邪道な考え方なのですが、そういう標準を使えば、公立学校から非常に学力の高い人が私立へ流れる。私立のほうが名声を高くして、そして、いい先生を呼ぶ力はそれだけ増えたのです。

 結局、その平等主義的な意図で始めた改革が、国公立のほうから私立のほうへ、教育資源というのでしょうか、「いい学生」「いい先生」が流れる。そして、先生及び財力という重要な教育資源が国公立から私立へ移るような結果になりました。

 そういう、今までの改革が意図した結果以外に、意図せざる結果も大いにあったのです。

 今、日本でやろうとしている「個性尊重」とか、「創造性の養成」とか、「自由選択」とか、「ゆとり」とか、「自己責任」などを標語とするような改革も、果たして意図した結果ばかりではなく、意図せざる結果もあり得るのではないかと十分考えられます。

 結局、そういえば、まず現在行われつつあるような改革は、何を目指して、どういうような結果を意図的にもたらそうとしているのかが問題になると思います。

 これは、中教審の報告書などを読んでも、察知することはそう簡単ではありませんね。

 というのは、教育者の用語は、煙幕を張るというとおかしいのですが、非常に曖昧で、具体性を持たせることが難しいことが多いのです。

 例えば、これは中教審の新しい時代にふさわしい教育基本法のあり方についての報告書の始めですが、「男女共同参画社会の実現など、時代や社会の変化によって生じてくる新たな課題について、教育上的確に対応していくことが重要である」と。

 まあ当たり前のことであって、一体どういう具体的な例を指すのか。男女共同──「男女平等」ではなくて「共同」ですね、そういう言葉も非常におもしろいと私は思いましたけれども、そういうような用語が多いし、また、例えば「新しい時代を切り開く心豊かでたくましい日本人を育成する観点から」と、そういう大義名分的、偉そうな言葉が非常に多いのです。

 そしてまた、例えば「画一的な教育につながったという指摘がある」というような用語も非常に多い。

 「指摘がある」とは、そういうばかなことを言っているやつもいるという意味なのか、こういう立派な意見も述べられたという意味なのかがよくわからないのだけれども、とにかくそういう曖昧な言葉でいっぱいなのです。





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