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司会 それでは、お二方より、まず提言をお願いいたしたいと存じます。 始めに、劇作家で東亜大学学長の山崎正和さんにお願いいたします。皆さま、どうぞ拍手でお迎えくださいませ。(拍手) それでは、よろしくお願いいたします。 山崎 大学の問題について、手短に提案をせよというお話でありますが、提案というよりは、むしろ現状の病弊の症状分析ということで、お役目を果たしたいと思っております。 現在、大学がいろいろな意味で曲がり角にあって、もう少し言えば、危機的な状況にあるということは、本日これだけの方々がお集まりになっているということからも、推し量られるのであります。 ●時代に合わなくなった大学 ところで、大学の危機と言えば、多くの人たちが大学進学をする、いわゆる18歳人口の減少ということをおっしゃいます。少子・高齢化が大学の将来を暗くしているというのでありますが、私はそうは思っておりません。少子化がいかに進もうとも、ゼロになるということはあり得ない。今の割合で若者が減っていくとしても、解決は簡単でありまして、大学進学者の人口に対する率を増やせばいいだけのことです。今日、日本の大学は600余りありますが、それを全体足しますと、国民の50%が大学に進学しています。これを100%にすれば、大学の経済問題などというのは存在しないのです。現に50%まで飛躍的に伸びてきたのですから、本来ならば、この率を上げることが可能であるはずであります。 問題の本質は、大学に行こうという希望を持つ人が、今、言ってみれば高止まりで止まっているということであります。もっと皮肉なことを言えば、国民の50%が大学に行く時代に、大学の教育内容が昔のまま本質的に変わっていないという、このギャップの中に問題があると私は考えております。 アメリカの教育学者の中に、大学というものは国民の15%が大学に行くようになると、質が変わるんだという説をなしている人がいます。言ってみれば、大学は大衆化するということでありますが、15%で変質するのが、今や日本では50%なんですから、それは大きな変化だと言えるでしょう。 国民の50%が大学に行く中で、大学の教育の基本的な形は何かというと、一言で言えば、研究者養成なのであります。研究者を育てるということが、東京大学から地方の私立大学まで、言わず語らずというか、もう基本的な条件になっている。 そもそも大学教師を採用するときに、どの大学でも一番に見るのは、その人の研究業績でありまして、教育業績ではありません。教育業績をどのように測るかという物差しすらできていないのが現状であります。研究者を育てるという仕方で、実は、研究者にならない人を育てているんですから、ここに問題が起こるのは当たり前であります。 現在、大学で職業教育というものを行っているところは、ごくわずかな例外しかありません。研究者教育が、そのまま職業教育になるというのは、医学部ぐらいのものであります。医学部にも若干ずれはありますが、ここではほぼ研究者養成教育をしていますと、お医者さんがつくれます。工学部の一部にも、そういう学科はあります。これは、学科の性質もさることながら、教師個人の意欲度にかかるところも大きいのであります。 残りはどうなっているか。例えば、東京大学法学部、日本のアカデミズムのトップにありますが、ここで教えておられることは、法学者をつくる教育であります。じゃあ、司法官になろうか、あるいは公務員上級試験を受けようかという人はどうしているかというと、大学には行かない。うちで六法全書を勉強している。 もっと甚だしいのに至っては、上級公務員あるいは司法官を育てる、いわゆる専門学校がありまして、東大法学部の学生が、ダブルスクールでそちらで勉強している。こういう現象も見られなくはありません。 今、ロースクール(法科大学院)という新しい理念ができて、そこで学部から大学院まで一貫教育をやろうという動きが出ているのは、当然そうしたことに対する反省が下にあると見ることができます。 その他の大学で、実は、ダブルスクールというのは、皆さんのご想像以上に広がっていまして、大学では、大学卒の資格をもらう。これはなかなか大切でありまして、例えば、結婚のときの釣書に書ける。しかし、身につける技能、技術は専門学校へ行って勉強する。そういう学生は、相当数に上っていると思われます。 ●研究者養成を優先してきた 今申し上げた研究者養成というのは、一体どういうことであるか。それに対して、職業教育ないしは技能者教育というのはどういうことであるかということを、簡単にお話ししたいと思います。 研究者になろうというような人間は変わり者であります。これが人口の中に何%いるかというような数字は、私には挙げられませんし、誰も調べたことがないと思いますが、常識で考えてもわかります。研究者になる人間というのは、非常に長い時間、修行、勉強を重ねます。しかし、その学習のプロセスで、目的の姿というのが、ほとんど見えないのが、研究者養成であります。 早い話が、皆さんが英語を中学で習ったときに、ABCを覚えて文法を覚えると、将来シェークスピアについて論文が書けるなどと考えていらっしゃる方は1人もいないはずです。そもそもシェークスピアを読んだことがない。しかも、その背後にある山のような過去の研究業績について、想像することも不可能。しかし、そういうことは考えない。とにかく、日々に与えられたディシプリン、何といいますか、義務、規律というものをきちっと守れる人間、これが研究者向きの人間であります。数学だってその通りで、連立2次方程式を一生懸命解きながら、将来これが非線形の方程式、複雑系の数学につながるなどということがわかる生徒は、ほとんどというか皆無であるはず。その世界がどんなに楽しいかということも、もちろんわかりません。当面わかっているのは、2次方程式が難しいということであります。でも我慢をして勉強するような人間が、研究者になるわけであります。 一般の人たちは、実はそうではないんです。ある仕事について、つまり学習の目的について、かなり具体的なイメージを持つ。そして、多くの場合、学習のプロセスそれ自体が、何らかの役に立つ。これが、古くから人間の職業というものを支えてきた規律であります。 例えば、宮大工になる人は、長い長い修行をしなければならないのは、だれでも知っている。最初は、仕事場の掃除をする。かんなを研ぐ。繰り返しのつらい仕事が長く続きます。 しかし、そういう宮大工の徒弟といえども、自分が将来、薬師寺の塔を再建するんだ、再建された薬師寺の塔はあんなものだというのは目でわかります。あるいは、板前さんでも同じことで、大変生活条件の悪い調理場で、親方に下駄ですねを蹴られながら、毎日毎日お皿を洗っている。しかし、そういう苦労の果てに何ができるかということは、子どもにもわかるんです。 今、私は極端な例を挙げていますけれども、本来技能的な職業というものはそういうものでありまして、プロセスの中で目的が常識的な意味で見えている。だから、毎日苦労できるわけです。しかもここでは、仕事場の掃除をしていようが、お皿を洗っていようが、それに対してわずかなりとも報酬が出ます。つまり、社会的にその仕事はその段階で評価される。 しかし、研究者のプロセスというのは、全く評価されません。学校で化学の実験をやったからといって、報酬が出るわけがないのはもちろんのこと、そもそもその実験が、単に学習のためであって、学問研究という観点から見れば、三文の値打ちもないということがわかっています。私なんか特に理科系に興味がありながら進まなかったのは、実験が面白くなかったから。どんなに私が、実験の結果、新しい結果を出そうとも、そんなことは大昔の科学者がちゃんと答えを出している。違っていたら、私が間違っているに決まっているわけです。それでも、プロセスにほとんど何の価値もない、学習そのことにしか価値がないということに耐えられる人間は、ちょっと大雑把ないいかげんなことを言わせていただければ、国民の1%いるかいないか。本来そういう変わり者は1%でいいのであります。 ●これまでは「つぶしのきく」人材 ところが、大学では、国民の50%にその教育をやっている。すると、普通はどうなるかというと、大抵の学生、7割、8割の学生は、その研究者養成の授業を水で薄めて、そして、適宜お茶を濁して覚えるわけです。すると、卒業証書は出ます。彼は研究者でもなければ技能者でもありません。しかし、ありがたいことに、この現代の工業社会、ついこの間まで急上昇していた工業社会では、そういう人たちが大いに役に立った。そういう人たちとは何であるか。中くらいの知的能力を持ち、そして勤勉であり、協調心が高く、そして、いわゆるつぶしのきく人材であります。 中央官庁に行くと、こういう人たちのことをジェネラリストと言っているようですが、つまりは、ジェネラル、何でもできる。しかし、特に何もできない。そういう人を大量につくってきた。それが工業社会の組織的生産の中では、非常に役に立ったわけです。これは何も、工場の現場でそういう人が役に立つだけではありません。それを支えている企業全体、いわゆる事務系の中でも、人は組織で仕事をしていました。1人1人の技能ということは、その中では極めて相対的に言って低いものでありました。 昔、笑い話がありますけれども、大企業の人事部長が新入社員を相手にして、「おめでとう。君たちはきょうから我が社の社員だ。大学で習ったことはすべて忘れて、白紙になって我が社の色に染まってもらいたい」。 この笑い話は、少なくとも一端の真理を示しております。その結果、今、工業社会というものが、ある高い段階に達して質を変えている中で、苦労する人間を新たに生んでいます。長年組織の中で、つぶしのきく人材として有能だった人が、突然、リストラを受ける。するとどうなるか。 これも、笑えない笑い話ですが、ある立派な中年の組織人が、失業して新しい企業に面接を受けた。で、面接のほうが、「あなたは何ができますか」と聞いたら、その人は、「私は部長ができます」と答えた。 部長というのは、地位の名前であって、職業の名前ではありません。「私は営業のプロです」とか、「私は人事の専門家です」というふうに答えれば、これは職業ですけども、今のお話というのは、これまでの工業社会、つまり、大きな組織で社会が回っていた時代の名残のお話であります。 ●求められる人材は2極化 今、私たちはそういう工業社会、古い意味での大量生産・大量消費、そしてそれを支える大量の中堅の人員による大組織というものが限界にきている、そういう時代にめぐり会っています。 私は企業が衰えるとか工業が廃れるなどとは、毛頭思っていません。しかし、工業の質が変わります。特に日本のような先進国においては、もう既に変わりつつある。現実に、大企業の本社は東京にあっても、工場の大部分は中国や東南アジアに進出している。あるいは、逆に企業自体が外国の企業と合併して、本社は遠くニューヨークに行ってしまった。こういうことはこれからますます進むはずであります。 つまり、こういう社会の中で、どういう職業像が求められるか。つぶしのきく人間の大集団ではないのです。つぶしのきかない人が必要になってくる。それはもちろん、2つの極がありまして、一方はどなたも口になさる、いわゆる高度知識産業というもので、これは企業の中で言えば、いわゆる科学技術の発明であり、それも従来型の技術輸入改善型ではなくて、基礎から日本人が技術をつくっていかなければならない。しかし、技術をつくるためには、その前に基礎科学が必要だ。 科学だけではありません。日本の商品が世界で売れていくためには、デザインというものが必要になる。現に今、長時間お話しする時間がありませんけれども、日本の漫画文化を基礎にしたデザインというのは、世界的に広がりつつあります。これについて、アメリカ人の有名な報告がありますけれども、日本の文化的な創造力というのは、かなりの水準にきています。 しかし、今申し上げた科学技術の開発者にせよ、研究者、あるいはデザイナーにせよ、従来型の大組織の中からは育っていないのです。 これは、仮に企業が研究施設を提供して人材として引きとめるにしても、根本的には個人であります。個人は、自分の身についた知恵を持って、さまざまな組織を渡り歩く。そういう人間でなければならない。そういう人間は、場合によっては国境も越えてしまうかもしれません。
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