アサヒ・コム このサイトの使い方へ 検索へジャンプ メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

朝日新聞社からアスパラクラブクラブA&A携帯サービスWeb朝日新聞サイトマップ文字拡大・音声

天気住まい就職・転職BOOK健康愛車教育サイエンスデジタルトラベル囲碁将棋社説コラムショッピングbe

ここから本文エリア現在位置asahi.comトップ >  シンポジウム記事

朝日新聞シンポジウム「転機の教育」
【後半討論】ディスカッション(1)「財源の問題を巡って」

 苅谷 どうも皆さん、負担金の廃止は反対論が多いようです。ただ、ここはそれの決起集会ではありませんので、そこでもってトーンを1つにして議論をするつもりは毛頭ありません。

 むしろここで、前半の冒頭にも申し上げたように、じゃあ、国と地方の役割、あるいは、学校と地方の教育委員会の役割は何なのかという先ほども出ているナショナル・ミニマムやローカル・オプティマムとか、そういうそれぞれの役割の中で、財源っていう問題をどう考えればいいのかというところに論点を進めない限りは、単純に廃止論が拙速だからいけないとか、そういう議論に陥っちゃうとすると、それはまたやはり問題だと思うんですね。

 やはりこの問題がどういうところに影響を及ぼすのかということを見きわめながら判断する、やっぱりそういう情報をここで提供できればと思うんですが、今一巡したところで、樋口さん、どうですか。

 樋口 地方6団体のご提言は、やはり財政論的な観点が非常に強かったんだろうと思うんですね。義務教育についての国の役割、あるいは、国と地方の役割分担ということについてご検討いただいたという感じはあまりいたさないわけであります。

 私どもとしては、やっぱり義務教育における国の責任というのは一体どうあるべきか、そして、義務教育はすべて国が抱えるのではなく、地方との共同作業で行っていくという、その枠組みはどうあるべきかという議論が必要だろうと思っているんですね。

 いずれにしましても、これは義務教育の実施主体は市町村であるわけでありますから、市町村と学校が、義務教育が円滑にできるような条件整備というのは、やはり国の責任で、特にこれは全国的に格差なく行う。格差なく教育政策として、この一定の教育水準を確保するということは、これは国の責任であろうと思うんですね。ある県でできた、ある市町村ではできたけど、別の県、市町村では、一定の教育水準が守れなかったということでは、国民教育としての義務教育というのはうまくいかないだろうと思うわけであります。

 やはりこの義務教育は国民教育として、やはり教育というものはどうしても個人の人格の完成を目指すという個人的な側面はありつつも、やはり国家社会の優位な形成者を形づくるということ。その意味で、国民生活に必要な一定の知識、技能を持っていただいたり、あるいは、共通の価値観や文化的な意識というものをやはり持っていただく。そのための国民教育というのは、これは国の責任において義務教育できちんとやっていくべきだろうと思うわけであります。

 その意味で、それを財源的にきちんと保障しながら、地方に創意工夫ある教育を行っていただく、この枠組みは、やはり私は今後とも必要だろうと思っています。

 苅谷 先ほども、選挙という話がありました。これもある意味で、今日の皆さんは比較的、義務教育費の国庫負担金廃止に反対論なんですが、賛成する方たちは、こういう意見を言うわけですね。「ちゃんと首長さんたちは選挙にさらされる。そう簡単に教育費は削れない。むしろ、選挙にさらされている人たちこそ、責任を持って教育を運営できるんだ」と。

 その反面、その裏側に何があるかというと、じゃあ、今までの文部科学省のやり方はよかったのかということを必ず問われるわけですね。

 先ほども「もっと前にやってればよかった、もっと早くやってればよかった」というご意見もありました。それが、ただタイミングだけの問題なのか、やっぱり今、省益じゃないといっても、どこか衣の下に鎧がちらっと見えたり、やっぱりそうは言っていながらも、権限をどっかで残したいんじゃないかというような、不信感というと言葉は悪いんですが、これまでの文科省と地方との関係の中でのある種の信頼関係みたいなものが、こういう動きをつくり出している背景の1つであることは、僕は間違いないと思うんですね。

 この辺、穂坂さんのお立場というのは、先ほども、まさにご自身が選挙で問われるお立場にあるわけなんですけれども、市民、住民と教育行政、そして、首長というお立場から、この辺についてはどういうふうにお考になりますでしょうか。

●都道府県レベルでは、選挙の争点にならない

 穂坂 1つは、ちょっとさっき忘れちゃったんですが、国が持つとか地方が持つとかって議論は、本来的にはこういう言い方だと思うんですね。国民の皆さんが、国民全体が義務教育に対する機会均等とか教育水準――それも最低でいいと思うんですが、そういうものを国民がやっぱり全体で持つべきかという議論であると思うんですよ。そのことについて、私は持つべきだという意見なんですね。

 2つ目の今、選挙という話が出ましたが、結局、今度の国も6団体も、私は6団体の方々にもはっきり言っているんです、これからもし丸投げいったら、これからスタートですよと。要するに、今度は都道府県と市町村がどういうふうにこの義務教育をやっていくかというのをはっきりお互いが権能を分かち合わないと、めちゃくちゃになっちゃいますよ、そう言っているんですね。そこのところは、残念ながら、文科省もさほど触れてないんですよ。それが1つ。

 それから、私たちは確かに選挙の洗礼を受けています。しかし、県レベルですと、もうその辺の、さっき言った評価ってありましたが、大き過ぎちゃって、例えば、埼玉県というのは700万いますね。700万の中で、評価をどうするったって、なかなかできませんよ。

 ですから、そういう意味では、みんな現場を知らない――知らないまで言ったら怒られちゃいますが、要するに、地方対国ということで今やっている。ですから、そういう中で、今度は、「まあ、知事会がやるからいいだろう」って多分6団体ってなっちゃうんですが、それはある意味では、こういう意見の人も知事の中にはいる。「いや、私たちは、だって実施主体じゃないもん。ですから、案外、気楽だよ」っていう人もいるんですよ。それは、そうなんです。

 ですから、その辺も、というものの考え方もあり、それから、さっき言ったように、ぎりぎり待っても動かない、いつも中央集権でがっちり縛っている、裁量権が何もない、じゃあ、この際、一気にやろうという、私は気持ちはわかるんですよ。

 ですから、やっぱり今回、もう一回原点に戻って、私は制度改革、さっきの「6・3制」を「5・4制」もいいなんて、むしろそれよりも、もっと基本的なことをどうすべきかをきっちり決める。例えば、国の役割はもうこれだけですよ、それから、都道府県は補完処置をこうすべきですよ、市町村はこれだけのことは責任持ってやりましょうよ、あとはみんな、創意工夫でやろうとか、やっぱり原則論、さっきも言いましたが、そういうことをきちっとしないと、総額裁量制もいいと思う。「6・3制」を変えて「5・4制」もいいと思うんですが、ただ、そういう目先の――目先と言っちゃ悪いですが、えさなんかあるようで、やっぱりこっちがいいんだからこうだよというよりも、むしろ私は原則論できちんとして、そして、本当に国民のコンセンサスがどこにあるのかを、まずきっちりしたほうがいいと思います。

 選挙は、落ちるか落ちないか、都道府県レベルでは全然私、争点にそんなにならないと思います。

 苅谷 そうすると、あまり選挙というものがフィードバックがうまくかかるような仕組みとしては、教育の問題についてはなかなか機能しないかもしれないということですかね。

 穂坂 大体、教育をあんまり選挙でやるべきじゃないと私は思っているんですね。ただ、後ほど出てくると思いますが、教育委員会制度というのは、都道府県でも市町村でも独立しちゃっている機関ですから、この辺のあいまいさがまたあるでしょう。例えば、選挙で悪いっていったら、今の制度のまま、現制度で行っちゃったら、知事や市町村長が悪いんじゃなくて、みんな教育委員会が悪いんだって、これでもって済んじゃうんですよ。

 だから、この辺の仕組みも考えないと、これらもやっぱり大きな問題点の1つだと私は思いますね。

●現場の実態とかけ離れた議論

 苅谷 これは、また後で議論します。教育委員会制度というのは、実施主体の中でだれが本当に地方の教育を担うのか、分権化時代の責任主体の問題ですので。これ、ちょっと、まだ複雑な問題なので、ちょっと残しておきます。

 今のお話の中でも、じゃあ、でも原則論はどこで議論するのか、だれが議論するのかという問題があるわけですね。これはまた難しい。本来、これは国の役割ですから、当然、国会がきちんとした議論をして、義務教育に対して国がどういう責任を持つのかということを、それぞれの政党なり何なりが打ち出した上で、国民のいわば選挙、それこそ国政の選挙を経て決まってくるという仕組みだと思うんですが、残念ながら、なかなかこの問題についても、十分な議論が国会でも行われないまま、決まろうというような感じもするわけですね。

 じゃあ、マスコミがきちんと論点を整理して提示しているか、これもまたなかなか見えにくい。一般の国民の皆さんが、私も含めてですが、どういうところに判断規準を置いたらいいのかということがわからないまま、さっき丸投げという言葉を使いましたが、何か大きな制度が変わろうとしている。

 こういうものの決め方、あるいは、決まり方というのは、やっぱり非常に大きな物事が変わる時には、どうしても起きるのかもしれませんが、かといって、それを何の検証もないまま、一挙にそうやって形を変えた上で学習すればいいのかというと、それはまたいろいろリスクがあるような気がするんですね。

 こういった点で、まだまだ学校現場の話とは遠いのかもしれませんが、実際にそれでもって一般財源化した時には、加配教員だってなくなるかもしれないし、もしかすると、一般教員と非常勤の教員の比率だって変わるかもしれない。

 前半の議論で、結局、学校が自立するためには、どれだけサポートしたり支援できる仕組みがあるのかということがやっぱり重要なんだということが、せっかく論点として出てきているわけですが、そういった教育の世界で論じられていることと、どうも違うスピードで、違う枠組みで議論されているように思うんですけれどもね。

 その辺のところは、佐藤先生とか大西先生あたりは、いかがお感じになっていますでしょうか。

 佐藤 地方分権の中で、やっぱり財源をどう担保するかということが非常にクローズアップされていたと思うんですね。

 私は、中央集権であれ、地方分権であれ、一番大事なことは、現場の実態を行政とかいろんな人たちがどれだけ把握しているかということが一番問題だろうと思います。

 そこのところがちゃんと把握されていなくてどんな政策が出ても、根本的な解決はできないんじゃないかなと思っています。

 大西 一般論化しちゃうといけないのかもしれないんですけど、やっぱりだれが教育の何に責任を持つのかということだと思うんですよ。国が責任を持ってくれるのはどこって。地方公共団体で言えば、県のだれが責任持つんですか。

 でも、学校が責任を持たなきゃいけないこともあるわけですよ。だけども、その部分があいまいなまま、今の私が心配するのは、なんやかんや言っても、最後は、地域評議員会だとか、そういったのができてきて、結局、責任は学校がとれということで、学校に責任がいっちゃうかもしれない。でも、学校にそれだけのことが、やれるだけのもの、条件が与えられてない、金だって何だって。それでそんなこと言われてしまって、悪いのは学校、教員批判、校長批判、そんなことになるんじゃないかというすごい怖さはありますね、この議論の先に。

 だから、やっぱりお金の問題もそうですけど、だれが何の責任を持つの、国は一体子どもたちの何の責任を持つの、県はここには絶対責任持っていますよと、それをはっきりしてくれないと、学校に全部責任が最後には行ってしまうんじゃないかなというのが、学校なんか見ている立場で言えば、それが一番心配なんですよね。


ここから広告です 広告終わり
▲このページのトップに戻る

asahi.comトップ社会スポーツビジネス暮らし政治国際文化・芸能ENGLISHマイタウン

ニュースの詳細は朝日新聞紙面で。» インターネットで購読申し込み
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
| 朝日新聞社から | サイトポリシー | 個人情報 | 著作権 | リンク| 広告掲載 | お問い合わせ・ヘルプ |
Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.