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立山 皆様、こんにちは。防衛大学校の立山と申します。 きょうは、4人の方、イスラエルからお2人、パレスチナからお2人、それぞれ、親族の方をテロや暴力で亡くされた方々がつくっていらっしゃる「遺族の会」の代表として日本に来られてお話しされるということで、その前に私から、パレスチナ問題がどういうものであるのか、特に90年以降の中東和平プロセスがどういうもので、どうして今のような暴力あるいはテロの連鎖になってしまったのかを45分ぐらいの時間でお話しさせていただきます。 と同時に、まず最初に、お2人のイスラエルの方、フランケンタールさん、シャハクさん、それからもうお2人のパレスチナ人の方、エサウィさん、ブリギスさん、この4人の方に、心から日本に来られたことを、あるいはこういう運動をずっとやっていらっしゃることに敬意を表したいと思います。 やはりイスラエルとパレスチナとの間での、特にこの3年ぐらいの対立が激しくなるにつれて、相互の不信感あるいは相互の憎悪は非常に強いわけです。そういう強い不信感あるいは憎悪を乗り越えて、あるいは乗り越えるためにこういう活動をやっていらっしゃることに心から敬意を表したいと思います。 ●1つの土地をめぐる2民族の対立 パレスチナ問題とは何なのか。いろいろな見方ができるかと思いますが、私は「1つの土地をめぐる2つの民族の対立」と考えております。パレスチナという土地、あるいはイスラエルという土地、「パレスチナの地」「イスラエルの地」という言い方がありますけれども、この1つの土地をめぐるパレスチナ人とユダヤ人の2つの民族の対立であるということであるわけです。 現在の国際政治システムは、「1つの民族が1つの国家を持つ」という前提があるわけです。この前提がいいかどうかは別の問題として、事実としてそういう前提があるわけです。 このためにユダヤ人は、自分たちは民族なのだから国家を持つ、パレスチナ人も、自分たちは民族なのだから国家を持つ、そのためには、領土・領域が必要である、ということで土地をめぐる争いが生じているということかと思います。 よく「ユダヤ教とイスラム教の対立である」と言われますけれども、私はその意味ではユダヤ教とイスラム教の対立ではないと思っています。もちろん、現在は非常に宗教的な対立の側面・性格が色濃くなっていますけれども、もともとはそうではなかったと考えております。 結局、その2つの民族のうち、ユダヤ人のほうはイスラエルという国を持つことに成功したわけですけれども、パレスチナ人のほうはまだ持っていない。何とかそれを持ちたいということであるわけです。 90年代、さまざまな和平交渉が行われましたけれども、その和平交渉の最初は、1991年のマドリード和平会議であったわけです。これは、湾岸戦争による中東の大きな変化を受けて開始されたのですが、しかし、そのマドリードの和平会議以前からもずっと、実はイスラエル・パレスチナ双方は、何とか和平が実現できないかというさまざまな努力を積み上げてきたわけです。 基本的な考え方は、先ほど申し上げましたように1つの土地をめぐる2つの民族の対立であり、それぞれが国家を持とうとしているわけですから、結果的には1つの土地を何らかの形で2つに分けて、2つの国家をつくるという方法しかもうないわけです。あとは、どちらか一方が全部とってしまうということになるわけです。 そういう2つの国家をつくる「2国家解決案(Two States Solution)」がずっと議論はされてきたわけですけれども、なかなか実現には至らない。それは、実際にどのように分けるかという問題があるわけです。 もちろん、五分五分、50%・50%分ければ一番いいのかもしれませんけれども、それぞれの主張がここでまた出てくるわけです。 ●ヨルダン川西岸とガザで暫定自治 70年代、80年代に入ってずっと議論されてきたのは、1967年(第3次中東戦争)にイスラエルが占領した土地、ヨルダン川西岸とガザ地区、この2つの地域をイスラエルがパレスチナ側に返還して、そこに「パレスチナ独立国家」をつくるという考え方、これがイスラエルでもパレスチナ側でも80年代の初めころからでしょうか、次第に明確になってきたわけです。 こういう考えに基づいて、1991年にマドリード和平会議が開かれ、さらに1993年にはイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)との間でオスロ合意あるいは暫定自治合意と呼ばれる合意ができ、それでパレスチナ側は西岸とガザでとりあえず暫定的に自治を行うということが始まったわけです。 これは、先ほど申し上げたオスロ合意にせよ、2つの国家を1つの地域につくることがある意味では暗黙の了解としてはあったのですが、その合意文書を読む限り、何もそのことは書いていないわけです。 書いてあることは、基本的に5年間の暫定的な自治をパレスチナ側が行う、5年後に最終的にどういう形にするか、これは双方が交渉して決めていきましょう、交渉して合意して、それでその合意を実行することにしましょう、ということしか書いていないわけです。 もちろんその中には、エルサレムの問題とか、あるいは入植地の問題とか、あるいはパレスチナ難民の問題とか、さまざまなものが含まれているわけです。 結局、ですから、そのオスロ合意があって以降の中東和平プロセスは、明確なゴールを示していなかったわけです。 なぜ明確なゴールを示さなかったか、大体みんなわかっていはいたのですけれども、示さなかった。 これは、やはり双方の中に和平に反対するグループがいたり、あるいは和平に反対はしていなくても、双方ともまだお互いに信用できないというような意識、多くのイスラエル人あるいは多くのパレスチナ人が、ほんとうにうまくいくのかという不信感、そういったものがあったために、むしろ5年間の時間を使って徐々に信頼関係をつくっていき、その中で最終的なゴールを明確にすればいいではないか、最初から最終的なゴールを明確にすると、むしろ反発があるかもしれない、ということでそのゴールを示さなかったということであるわけです。 しかし、実際には、1994年にはパレスチナ側が暫定自治政府をつくって、暫定自治を開始したわけですし、それから、イスラエルとパレスチナの間でもオスロ合意以降、さまざまな合意ができて、その中では、あるいは治安維持をするためにはどのような協力関係をすればよいのかというような合意もできたわけです。 例えば、日本なども1994年からですか、パレスチナ自治政府あるいは国連を通じたパレスチナに対する経済的な援助を行ってきたわけですし、日本だけでなく、ヨーロッパ(EU)あるいはアメリカなども行って、世界的にこの中東和平交渉あるいは中東和平プロセスを成功させようという努力がなされてきたわけです。 確かに1990年代の前半、94年とか95年は何とか和平が実現するのだろうかという雰囲気もありましたし、イスラエル人にしても、パレスチナ人にしても、その希望をかなり持っていたと思います。 ●初めての選挙に喜々としたパレスチナの若者 例えば、1996年にパレスチナの自治選挙が行われましたけれども、そのときに、私はちょうど日本からの選挙監視団の1人として現地におりました。 開票所で、ちょうど私が票を数えていたのに立ち会ったといいますか横にいたグループは、ベツレヘム大学の若い、20歳過ぎぐらいのパレスチナ人の人たちでしたけれども、彼らはほんとうに自分たちの将来が明るくなったという感じで初めての投票──自分たちも投票したわけですし、その投票結果を集計している様子があったわけです。 ただ、ご承知のとおり、この選挙が行われたのは96年の1月ですけれども、その少し前、95年11月にイスラエルのイツハク・ラビン首相がテルアビブで暗殺されて、さらに翌年の96年春には、和平に反対までは言わないかもしれませんけれども、決して積極的ではないリクードという右派政党の政権が誕生して、名前を覚えていらっしゃるかもしれませんが、ネタニヤフという人が首相になって、和平プロセスは大きくスローダウンしてしまった、あるいは、全く進まなくなってしまったわけです。 ●神様からもらった「約束された土地」 さらに、ラビン首相の暗殺の背景にあったのは、ユダヤ教の中で絶対に今の和平プロセスに反対しているグループがあり、その中の1人の若い青年がラビン首相を暗殺したわけですけれども、彼らは、「イスラエルの地」と呼ばれている場所は神様から我々がもらった「約束された土地」なのだから、それを異教徒、具体的にはパレスチナ人に譲ることは許されない、という宗教的理由からラビン首相を暗殺したわけです。 こういう、宗教的なユダヤ教の非常に過激なグループがいますし、それだけではなくて、そこまで過激でなくても、ユダヤ人の中には、ヨルダン川西岸とかガザ地区を返すことには強く反対していたり、あるいは、宗教上の理由、あるいはナショナリズムといいますか民族的な理由、あるいは返して「パレスチナ国」ができた場合に、ほんとうに我々の安全が確保できるのだろうかという不信感、あるいは不安感といったようなものから、その和平プロセスに反対している人々がいたわけです。 同じようにパレスチナの側にも、最近でも名前はよく聞かれると思いますけれども、ハマスとかジハードとか、そういうイスラム過激派のグループ、あるいはイスラム的な考え方ではないですが、現在の和平プロセスに反対しているグループというものが存在しているわけです。 彼らにしてみれば、パレスチナという土地は、今、イスラエルがほとんど全体を抑えていますけれども、もともとは全部100%パレスチナ人の土地であったのだし、これからもパレスチナ人の土地であるのだから、そこでイスラエルという国と妥協してヨルダン川西岸とガザ地区だけに小さなパレスチナ独立国家をつくって、全体からいえばヨルダン川西岸とガザ地区の全部を足しても、イスラエルといいますかパレスチナの土地の4分の1にしかなりませんけれども、その4分の1だけを返してもらって、それで満足するのは正義に反するという考え方であるわけです。あるいは、神の教えに反するという考え方であるわけです。これが正しいとか正しくないとかではなくて、彼らはそう主張しているということですけれども。 そういう主張から「オスロ合意」そのものが不正なものであり、不当なものであるということで、アラファト議長が中心となって進めてきている和平プロセスに反対してきているわけです。 ですから、ラビン首相が暗殺されたのと同じように、今度はパレスチナ側も、若いパレスチナ人が爆弾を持ってバスを爆発させるというような、通常は「自爆テロ」と言っているわけですけれど、そういうことが起きたり、あるいは、それ以外にも、ナイフを持ってユダヤ人を刺すとか、あるいはイスラエル軍の見張り所に銃を乱射するとか、そういう形でのテロ・暴力行為を繰り返しているということになるわけです。 最近有名になったので、ランティシというハマスの指導者がいますけれども、彼はある本の中で、「自爆テロ」という言葉は使わないでくれと、彼らは自分で選択した「殉教」という表現をしてくれ、というようなことを言っていますけれども、それはもう完全に宗教的な概念に基づいての暴力であるわけです。 そういう今度はパレスチナ側の暴力、自爆テロとか銃の乱射とか、そういうものが続いていく中で、それに対抗する意味でもイスラエル側も力で対抗する。これはどちらが先ということはもう言えないわけですけれども、イスラエル軍が例えばパレスチナ自治区の中にさらに入っていってハマスの指導者たちの暗殺を行うとか、あるいは、集団的な制裁といいますか、集団的な懲罰といいますか、そういう形でテロリストが出た地域全体を外出禁止令を敷いてしまうとか、その中にまたパレスチナ人とイスラエル軍との間での小競り合いというよりも、もっと対立が起きる。すると、片一方は当然戦車を持っていて銃を持っていてということですから、圧倒的に強いわけで、パレスチナ人が多数犠牲になるという状況が起きているわけです。 つい最近でも、ハマスの指導者がいると言われている建物に、あるいは車に、ヘリコプターからミサイルを発射して殺してしまう。そうすると、車だけが破壊されるのではなくて、周囲の道路の周りにある建物も、あるいはその周辺にいた、たまたま通りかかっていた人々も殺されてしまうという状況が続いているわけです。 特に、先ほど申しましたように、オスロ合意とは明確なゴール、最終目標を示していなかったわけです。ただ、とりあえず交渉を続けていきましょうということが合意されていたわけです。
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