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忠臣蔵

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写真:赤穂城跡大手門を出発する義士行列=08年12月14日、赤穂市上仮屋、茂山憲史撮影

赤穂城跡大手門を出発する義士行列=08年12月14日、赤穂市上仮屋、茂山憲史撮影

解説

忠臣蔵とは

 赤穂浪士のあだ討ちを主題とする物語の作品群の総称。もともとは、人形浄瑠璃・歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」(かなでほんちゅうしんぐら)=1748(寛延1)年初演=の略称として用いられた。近年になっても小説や映画、テレビなど数多くが作品化され、いつの時代も人気が衰えない題材になっている。

 物語は江戸時代中期、主君の敵討ちを誓った忠臣が苦心の末に敵討ちを果たすという「赤穂事件」を題材とする。

 元禄14(1701)年、江戸城中の松の廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が、個人的な恨みから高家(こうけ)旗本の吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか)を切りつける刃傷事件を起こし、即日、切腹処分となった。上野介は軽傷ですみ、なんの咎めもなかった。

 浅野家の家老・大石内蔵助良雄(おおいし・くらのすけ・よしたか)らは幕府の処分を一方的と主張し、両成敗を主張したが、聞き入れられなかった。

 亡君のあだ討ちと浅野家の名誉回復のため、内蔵助らは策を練り、1702年12月14日夜、内蔵助ら赤穂浪士47人(四十七士)が吉良屋敷に討ち入り、上野介を討ち果たした。

 上野介の首は、泉岳寺(東京都港区高輪2丁目)の主君・内匠頭の墓前にささげられ、四十七士は幕府の命により切腹した。四十七士は、主君と同じ東京・泉岳寺に埋葬され、その墓は今も寺の南の丘にある。また、元文4年(1739年)、四十七士の37回忌の時には赤穂市の花岳寺にも墓所が建てられた。こちらには、遺髪がおさめられているとされている。

 討ち入りの日である12月14日には東京の泉岳寺や兵庫県赤穂市をはじめ各地で「義士祭」が行われる。赤穂市では、前夜祭を含め、四十七士に扮したパレードなど様々なイベントも行われる。(アサヒ・コム編集部)

解説文は09年12月4日更新

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