天武天皇が681年、皇室の記録「帝紀」と神話・伝説を記した「旧辞」を整理・一本化するため、側近の稗田阿礼(ひえだのあれ)に覚えさせた。天武天皇の死去で中断したが、元明天皇が太安万侶に阿礼の語りを聞き取って編集するよう命じ、712年に献上された。3巻あり、国の誕生から推古天皇の時代までの神々の世界や天皇家の系譜を描く。
『古事記』や『日本書紀』によれば、神武天皇は、天下ったニニギノミコトの子孫で、第1代の伝説上の天皇。『日本書紀』によると、日向にいたとき、東の方に都をつくるのによい土地があると聞いて「東征」の旅に出る。海路や陸路で近畿へ進み、地元勢力と戦いを交えながら、大和の橿原宮で即位したと伝えられる。
国造は律令制導入以前の地方の主で、「くにのみやつこ」「こくぞう」と読むが、出雲では「こくそう」と濁らない。「古事記」「日本書紀」にある高天原から大国主神の下に遣わされた神「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とする。南北朝時代に千家・北島両家に分家し、月交代で杵築(出雲)大社の祭祀(さいし)を執った。明治政府が第80代出雲国造の千家尊癖たかとみ)氏を出雲大社大宮司に任命してからは、千家国造家が宮司を務める。現在の千家尊祐宮司は第84代出雲国造。
土俵上で懸命に救命活動をする女性に「降りて」とアナウンスした日本相撲協会の対応が物議を醸している。大相撲における「女人禁制」はどのように「伝統」となったのか。 奈良時代の古事記や日本書紀に記述があり…[続きを読む]
大辞林 第三版の解説
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