1号機の原子炉設置許可取り消しを求め、1979年に地域住民たちが当時の通商産業相を訴えた。1、2審で「国の安全審査に不合理な点はない」との判決が出て、上告。その後の2007年に中越沖地震が起きて同原発が被災し、3千カ所以上が壊れるなどしたため、原告側は口頭弁論を開くよう求めたが、最高裁は同地震の発生は「判断を左右するものではない」として、09年に上告を棄却。住民側の敗訴が決まった。
岡山県の療養所に重症の結核患者として入院していた朝日茂さん(当時44)が1957年、生活保護費が少なすぎて必要な栄養すらとれず「健康で文化的な最低限度の生活を営む」には不十分だとして、国に改善を求めて起こした行政訴訟。60年の東京地裁判決は全面勝訴したが、3年後の控訴審では敗訴。上告後、朝日さんが亡くなる直前、支援者の健二さん夫妻が養子になり、訴訟を引き継いだが、最高裁は継承を認めず67年に上告を退けた。一連の訴訟は大きな社会的関心を呼び、「人間裁判」と称された。その後の日本の社会保障制度のあり方にも多大な影響を与えた。
もんじゅは1994年に初臨界。翌95年12月、原子炉の出力上昇中に配管から冷却材のナトリウムが漏れ、火災が発生した。原因は配管内の温度計のさや管が設計ミスで折れたためだった。住民らが原子炉の設置許可無効を求めた行政訴訟は、2003年の高裁判決で原告側が勝訴したものの、05年5月の最高裁判決で一転敗訴が確定。同9月に運転再開に向けた改造工事が始まり、07年に完了した。しかし、その後もナトリウム漏れ検出器の誤警報や自治体への通報遅れなどが続発し、運転再開が延期されていた。
東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会が吉田昌郎所長(故人)を聴取した「吉田調書」に記された東電の社員名について、東電株主代表訴訟の原告らが、津波対策を決める過程で重要な役割を果たした人…[続きを読む]
大辞林 第三版の解説
デジタル大辞泉の解説
世界大百科事典 第2版の解説