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惜しまれ移設 慕われ10年 西田橋(鹿児島県)

2010年12月17日

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写真:移設された西田橋。後方で桜島が噴煙を上げる=上田頴人撮影拡大移設された西田橋。後方で桜島が噴煙を上げる=上田頴人撮影

写真:西田橋の要石の拓本と、石原正信さん、森山愛子さん、野ぞえ宗男さん(奥から)=根岸写す拡大西田橋の要石の拓本と、石原正信さん、森山愛子さん、野ぞえ宗男さん(奥から)=根岸写す

図:  拡大  

 「甲突川(こうつきがわ)に架かっていた頃の方が、確かに風情はありましたが……」。鹿児島市の石橋記念公園に鎮座する西田橋を見上げながら、石橋記念館の菅井寛館長(70)が言った。橋がまたぐのは川ではなく、人工の水辺。橋は移設されて10年がたった。

    ◇

 甲突川にはかつて、大きなアーチを持つ五つの石橋が架かっていた。江戸末期、財政改革に成功した薩摩藩が肥後の石工・岩永三五郎を呼んで造らせたもので、150年にわたって市民に利用され、愛されてきた。

 だが1993年夏の集中豪雨で甲突川が氾濫(はんらん)し、二つの石橋が流失。県と市は河川改修と、残る三つの橋の移設を決めた。西田橋の解体は96年に始まり、移設された橋は2000年、記念公園として公開された。今では観光客など年間20万人近い人が訪れ、夏には子どもたちが水遊びに興じる。菅井さんは「石橋なのに柔らかさ、しなやかさを感じる。今の方が大きさやアーチの美しさに気づけるはずです」と誇らしげだ。

    ◇

 当時盛り上がった現地保存を求める声は、消えたわけではない。「西田橋は市の要。いつか甲突川に戻したい」。洋画家の野ぞえ(のぞえ、ぞえは人編に忝)宗男さん(70)は、今もあきらめていない。

 野ぞえさんは95年、西田橋を拓本に残す活動を始めた。貴重さをもっと知ってもらい、市民が気軽に参加して保存の意義を感じ取ってくれればと考えた。

 ラジオで野ぞえさんの呼びかけを偶然聴いた石原正信さん(70)は、即座に参加を決めた。のめり込んで「人生が一変した」。拓本作業は解体と並行して進められた。ヘルメットを被り、足場に乗って丹念に石をこする。「ノミの掘り跡に、石工さんそれぞれの癖があるのよ」と日本画家の森山愛子さん(82)。拓本は和紙2千枚以上になった。復元したパネルは横幅が60メートル近くある。全体を展示できる機会は、残念ながら多くない。

 「橋を元あった場所に戻せたら、文化財と共存する街というアピールになる」。それが鹿児島の街をより豊かに、より魅力的にすると野ぞえさんは思う。(根岸華奈子)

    ◇

《メモ》 4連アーチの石橋。全長49.5メートル。城下の玄関口として薩摩藩の威光を示すために擬宝珠をつけ、他の4橋の約3倍の費用をかけて造られた。篤姫(あつひめ)もこし入れの際に渡ったと伝わる。隣接する祇園之洲公園には玉江橋と高麗橋が移設されている。

■石橋記念館 五石橋の歴史や技術を映像やジオラマで紹介する。入館無料。[前]9時〜[後]5時(7、8月は7時まで)。[月]と12月31日休み。公園は常時開園。鹿児島市浜町1の3、石橋記念公園内(鹿児島中央駅からカゴシマシティビュー、電話099・248・6661)。

■『肥後の石工』 今西祐行の児童向け時代小説。五石橋を架け終え、永送り(暗殺)を免れて肥後に帰った岩永三五郎が、命をかけて橋を造り、弟子を育てる姿を描く。

■桜島 錦江湾の中央に位置する活火山。1914年の噴火で大隅半島と陸続きになった。鹿児島港からフェリーで約15分(150円)。溶岩展望所などをめぐり、約2時間で島を一周する定期観光バス(鹿児島中央駅発着、2200円)が便利。溶岩なぎさ公園には全長約100メートルの足湯も。電話サンサンコールかごしま(099・808・3333)。

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