秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き
2010年8月5日19時31分
マクペラ洞窟は、預言者アブラハムを始めとする3代の族長とその妻を埋葬した「ユダヤ教第2の聖地」である。洞窟の上には、約2000年前に建造
物が建立され、以後、十字軍とイスラーム王朝によって2度大増改築が行われた
ヘブロン市は、パレスチナ西岸地区第2の都市で、約17万人のパレスチナ人と約800人の強硬派ユダヤ人が住む
マクペラ洞窟ユダヤ教徒主要礼拝所の聖櫃(せいひつ)。中には律法(トーラー)の巻物が納められている
アブラハムの妻サラの墓標前で祈る筆者(左)。ユダヤ教の聖所では、男子は「キッパ」と呼ばれる帽子を被ることが礼儀だ。頭上にいる神への畏敬の
念を忘れないためだという
マクペラ洞窟イブラヒーム・モスク「イサクの広間」にある「エデンの園への入口」。大理石盤の真中にある銅製のフタで閉じられた直径28センチの穴が、地下のマクペラ洞窟に通じる唯一の入口である
イスラエル滞在第2日目の朝。首都エルサレムのラッシュアワーの人々が行き交うなか、私たち夫婦は、歩道寄りに駐車したワゴン車の後部座席で、親友シャロナとの再会を今か今かと待っていた。
マクペラ洞窟にいくためだ。マクペラ洞窟には、旧約聖書に記載されるアブラハムを始めとする三代にわたる族長とその妻の墓がある。アブラハムは、紀元前19〜17世紀頃の人物とされ、メソポタミア南部(現在のイラク南部)のウルで生まれ、75歳のとき、神の召命(聖使命を果たすために、神から呼び出されること)のままに家族らと共にカナン(現在のイスラエル)まで大移動を行い、「ヤハウェを唯一神として信じれば、無数の子孫に恵まれ、カナンを永遠にアブラハムとその子孫の所有地として与える」(要約)との契約を神と結んだ。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と続く歴代の一神教徒に崇敬され、特に、ユダヤ人にとっては、ユダヤ人の「太祖」。その墓があるヘブロンは「第二の聖地」であり、一般のツアーでは行くことができないヘブロンを訪問したかった理由も、そこにあった。
「シャローム(ヘブライ語の挨拶言葉で「平和」の意)!元気だった?!」
シャロナは、ふくよかな身体を揺らしながら、見知らぬ小柄な男を引き連れて車に乗り込んで来た。
私たちと同じ後部座席に身体を押し込むと、シャロナは満面の笑顔で私たちの顔をのぞき込んだ。弁護士として活躍する彼女は、多忙な中、自宅があるイスラエル北部の主要都市ハイファ近郊から駆けつけてくれたのだ。
そして、シャロナが今降りたばかりの長距離バスで知り合った人物が、助手席に座った。彼は、目的地であるヘブロンのマクペラ洞窟で6年も警備を担当している警察将校で、オーレン(40)と名乗った。
首都エルサレムの南32キロ地点にあるヘブロンは、パレスチナ西岸地区第二の都市。約17万人のパレスチナ人と約800人の強硬派ユダヤ人が住む。双方の長年にわたる殺し合いはあとを絶たず、少数のユダヤ人を守るため、イスラエル政府は、ヘブロンに戒厳令を敷き、ユダヤ人地区とパレスチナ人地区を刃の付いたワイヤーなどで分離し、約1500人に上るフル装備のイスラエル軍兵士を配置する。しかし、オーレンがいれば、治安部隊とのトラブルもなく無事目的地に着けるだけでなく、ガイドもしてくれるのではないかというのである。
「あなたがたはラッキーだよ」。運転席の現地ガイドは言った。
移動中の車のなかで、インド出身のユダヤ人であるオーレンは、マクペラ洞窟について語り始めた。
「マクペラ洞窟では、巨大な魂たちの存在を感じるんだ。私には、訪れる人々にその魂のメッセージを伝える使命があると思っているんだよ。あなたにも、大きな魂があるから、巨大な魂たちの存在が感じられると思う」。
すると、シャロナが突然口を開き、「そう、この人は仏教のお坊さんなのよ」と言った。実は、十数年来の交友があるシャロナは、昨年、彼女のたっての希望で来日し、私が修行する旧仏教宗派の総本山の高僧方の前で、ユダヤ教に関する講演会を開いて宗教の相互交流を行い、その際、私がコーディネーター兼通訳を務めさせて頂いた経緯がある。私は、オーレンが感じ取ったのは、私の魂ではなく、私の背後で見守って下さる御仏に違いないと思った。
深くうなずいたオーレンは話を続けて、「実は、マクペラ洞窟は、ユダヤ教徒用とイスラーム教徒用の礼拝所に別れていて、観光客だけが両方を見学できるんだ」と言った。
その原因は、1994年に起こった「ヘブロン虐殺事件」にあった。ヘブロンに住むユダヤ人医師がマクペラ洞窟のイブラヒーム(アブラハムのイスラーム教での呼び名)・モスクの「イサクの広間」に入り、礼拝中のイスラーム教徒に向かって銃を乱射、パレスチナ人29人を殺害し150人(一説に125人)を負傷させたのだ。虐殺は、犯人が周囲のイスラーム教徒に殴り殺されるまで続いた。
マクペラ洞窟に着くと、「洞窟」という名前とは裏腹に巨大な石の建造物が建っていた。現地のガイドブックなどによると、紀元前17世紀、妻のサラが127歳で亡くなると、アブラハムは定住していたヘブロンのマクペラ洞窟を買って墓とした。その後、紀元前1世紀には、エルサレム神殿様式の石製建造物が建立され、紀元後12世紀には十字軍により教会が増築され、14世紀にはイスラーム王朝によりミナレット(尖塔)などが増改築されてモスクとなったという。
私たちは、まず、シャロナたちと共にユダヤ教徒側の礼拝所に入った。正面には新たに設けられたトーラー(律法)を納めた聖櫃があり、向かって右側にはイスラーム王朝時代に造られたアブラハムと妻サラの墓標が、向かって左側にはアブラハムの孫のヤコブとその妻レアの墓標があった。ユダヤ人に混じって、ひとつひとつの墓標の前で、畏敬の念を込めて合掌して祈らせて頂くと、オーレンの暗示に掛けられたのか、アブラハムの墓標では優しくも力強いエネルギーに、サラの墓標では大きな愛に包まれたような気がした。
次に、一旦、外に出て、イスラーム教徒用入口の検問所に向かって歩きながら周りを見回すと、そこはまるで「戦場」だった。検問所付近の石造りの住宅街には、カモフラージュされたトーチカが各所にあり、パレスチナ民衆が不穏な動きをしたら、イスラエル軍がすぐに反撃ができるようになっていた。
イスラーム教徒側の礼拝所であるイブラヒーム・モスクの「イサクの間」に入ると、ユダヤ教徒とは目を合わせない形で、アブラハムとサラの墓標が参拝できるようになっていた。一方、アブラハムの子イサクとその妻リベカの墓標は、礼拝の方向であるメッカの方向を示す「キブラ」に向かって左右に配置された小堂の中に安置されており、キブラとは反対の壁の手前には、地下のマクペラ洞窟に至る唯一の入口である「エデンの園への入口」があった。ここの穴からは、毎朝、モスク関係者によりオイルランプの灯明が奉納されるという。つまり、地上の墓標は地下の墓の配置とは関係なく、3組の夫婦がペアを組みながら一列に配置されているのだ。
「どこから来た?」
私たちが見学していると、突然、パレスチナ人男性がすれ違いざま、アラビア語で話しかけてきた。
「日本です」
「アラビア語が分かるのか?」
私がうなずくと、彼は質問を続けた。
「なぜ、ユダヤ教徒側とイスラーム教徒側の間に仕切りがあるか知っているか?」
「虐殺事件が起きたからです」
そこまで来ると、彼は、私を凝視してこう言ったのだ。
「一人が乱射しただけで、死者29人と負傷者150人というのは犠牲者が多すぎるとは思わないか。あれは、ここにいた治安部隊の兵士も同時に乱射したからなんだ」。
彼はそこまで言うと、人目をはばかるように立ち去っていった。
あとで調べてみると、イスラエル政府の公式報告書には、「犯人が複数いたと言う証言もあるが、それは間違いであることが判明した。犯人はあくまで一人である」と結論付けている。しかし、別の報道によると、複数説を証言した40人以上の負傷者は、病院の別々のベッドに横たわっており、「口裏を合わせる」ことは不可能だったというのだ。
虐殺事件は、銃撃の音を聞いてモスクに殺到した民衆に対してイスラエル軍が発砲するなど、双方の報復を相次いで招き、パレスチナ人26人とイスラエル人9人の更なる犠牲者を出した。そして、遂には、イスラエル国内でイスラーム過激派の報復自爆テロをも引き起こし、8人が死亡、34人が負傷したのである。
私には、無念の思いで亡くなった犠牲者たちが、あの男性の口を通して訴えてきたように思えてならなかった。私たち夫婦は、過去約3700年にわたり宗教の名のもとで殺された多くの犠牲者の魂が安らかなることを祈り、この地を去った。
秘境添乗員、フリーライター。1962年生まれ。元不登校児。高校時代、米国アイダホ州で一年間ホームステイ。大学時代は、エジプトの首都カイロに7年間在住し、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒業。留学を通して、「異文化間交流」の大切さを実感。在学中より、観光ガイド、ジャーナリストとして活動を開始。仕事等で訪れた世界の国・地域は100近く。著書に、「秘境添乗員」(文藝春秋)、「報道できなかった自衛隊イラク従軍記」(学習研究社)。
公式ブログ http://sea.ap.teacup.com/hachidaiga/
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