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秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き

飛鳥・法隆寺級、ベトナム最古の寺

2010年9月9日14時14分

写真:法雲寺の象徴「和豊塔」はれんが造りの約17メートルの三重塔で、西側入口前右側にある「石綿羊像」(写真では頭だけが見える)は、後漢代の作と言われる寺院内最古の像である拡大法雲寺の象徴「和豊塔」はれんが造りの約17メートルの三重塔で、西側入口前右側にある「石綿羊像」(写真では頭だけが見える)は、後漢代の作と言われる寺院内最古の像である

写真:日本同様、ベトナムでも良く祀られる執金剛神像(金剛力士像)は、前堂の入口に祀られ仏法を守護する役割を担う拡大日本同様、ベトナムでも良く祀られる執金剛神像(金剛力士像)は、前堂の入口に祀られ仏法を守護する役割を担う

写真:上堂(本堂)側面には、2体の菩薩像(右側)などが祀られていた拡大上堂(本堂)側面には、2体の菩薩像(右側)などが祀られていた

写真:内部はベトナム北部の典型的な寺院構造をしていた。手前から、前堂、香堂、そして、上堂(本堂)。一番奥の本堂には、本尊である法雲女神像が鎮座する拡大内部はベトナム北部の典型的な寺院構造をしていた。手前から、前堂、香堂、そして、上堂(本堂)。一番奥の本堂には、本尊である法雲女神像が鎮座する

写真:6世紀にベトナムに禅宗を伝えた毘尼多流支(ヴィニタルシ)禅師は、達磨大師の孫弟子で、この寺に住み、ベトナム仏教の主流派の一つ「毘尼多流支禅派」を創始した拡大6世紀にベトナムに禅宗を伝えた毘尼多流支(ヴィニタルシ)禅師は、達磨大師の孫弟子で、この寺に住み、ベトナム仏教の主流派の一つ「毘尼多流支禅派」を創始した

写真:上堂に祀られた観世音菩薩像。観音像は、ベトナムで最もポピュラーな仏像のひとつだ拡大上堂に祀られた観世音菩薩像。観音像は、ベトナムで最もポピュラーな仏像のひとつだ

写真:私たちの訪問の1カ月程前に門前に置かれていた乳児は、尼僧たちにより大切に育てられていた拡大私たちの訪問の1カ月程前に門前に置かれていた乳児は、尼僧たちにより大切に育てられていた

 首都ハノイから北東に約30キロ、田園風景に囲まれたタイン・クゥン村の一角に目的の法雲寺はあった。

 到着したのは太陽光線がジリジリと照りつけ蒸し暑い最中の午後2時で、山門は閉じたままだ。困っていると、門前にあったビニールシートで木陰を作っただけの屋台の主人が、壁を乗り越えて内側から門を開けてくれた。そして、彼は僧坊に入り、今度は、尼僧を連れ出してくれたのだ。尼僧に聞くと、「今は昼寝時間で、この寺に住む他の3人の尼僧は熟睡中」と言うではないか。私たちは無礼を詫びてから、話を聞かせてもらうことにした。

 尼僧は、釈曇心(38)と名乗った。釈師は、私たちを寺の廻廊にあるベンチに案内すると、薬草が入ったお茶を出してくれ、流れ落ちる汗を少しでも吸収しようと剃髪した頭にタオルを乗せた。廻廊の壁に日課表が張ってあったので見てみると、早朝4時の起床から21時の就寝の間には、念仏、読経や中国語、英語の勉強に混じって、しっかりと昼寝の時間も入っていた。

 「出家したのは私が30歳の時でした。それまでの人生は、何をやっても空しく、倦怠感にさいなまれていました。実は、小学校の教諭をしていたのですが、校長との人間関係が極度に悪化したのです。退職して入寺すると、毎日教え子たちが山門前まで来ては泣いていました。両親は大反対し、弟も『家に帰って来て欲しい』と懇願しましたが、私の決意は固く、しばらくすると皆あきらめたようでした」

 日本とは違い、ベトナムの出家僧は結婚せず、文字通り、家を出て寺に住むのだ。釈さんも、入寺以降はやむを得ないとき以外、両親に会ったことはないと言う。

 話が終わると、釈師は伽藍内を案内してくれた。

 一見、田舎の小寺院にしか見えなかった法雲寺だが、実は、その創建は紀元後1世紀まで遡るとも言われる「ベトナム最古の寺」であり、「ベトナム仏教発祥の地」なのだ。日本で言えば、「飛鳥寺」か「法隆寺」級の寺である。実際、伽藍内を進むと、第一印象とは打って変わって、各所に祀られた尊像群が歴史の重みを感じさせた。

 廻廊に囲まれた中庭には、この寺の象徴である「和豊塔」(18世紀再建)と呼ばれる高さ約17メートルのれんが造りの三重塔が建っていた。その西の入り口前には石製の羊像が置かれていた。これは法雲寺最古の像で、中国の後漢代(紀元後1〜3世紀)のものと考えられている。

 実は、この地域一帯は、かつて「ルイ・ラウ」と呼ばれたベトナムの都だった。都と定められたのは紀元前2世紀にまで遡ると言われ、紀元後9世紀までは、ベトナムの政治的、経済的、文化的、宗教的中心地だった。紀元前3世紀から中国の支配下にあったベトナムは、アジアの2大文明であるインドと中国の交差点であり、その都「ルイ・ラウ」は、インド、中央アジア、中国の商人などが行き交う町だったのだ。他にインドと中国を結ぶ主要ルートと言えば、中央アジア経由の陸路しかない。

 ベトナムに仏教がもたらされたのは、後漢代の紀元後1〜2世紀のことで、インドから海路と陸路を通して渡来した商人や僧侶たちによる。一説によると、中国の仏教は、最初にルイ・ラウで繁栄し、「20の仏塔が建ち、僧500人が学び、15の仏典がサンスクリット語から中国語に翻訳されたのち」に、中国本土の徐州や洛陽に伝えられたという。ここで翻訳された経典の一つが大乗仏教経典の般若経で、ルイ・ラウの仏教とは、般若経を中心とした仏教と道教が混在したものだった。前号で記したベトナムの神仏習合の起源は、ベトナム仏教の最初期にまで遡るのだ。

 寺院に入ると、内部は3つの部屋が連なって出来ていた。入り口から奥に、前堂、香堂、上堂(本堂)と並ぶ、典型的なベトナム北部の寺院構造だ。ベトナムは古来、伽羅(きゃら)をはじめとする高級香木の産地として有名だが、香堂とは、焼香を尊重したベトナム独自の堂宇である。

 前堂の入り口付近には、日本の山門でもよく見られる執金剛神像(金剛力士像)が祀られていた。外部からの悪霊や悪人を追い払い、寺院内の仏・法・僧を護る守護神だ。

 上堂の一番奥には、法雲寺の本尊である高さ2メートルほどの「法雲女神坐像」が鎮座する。現在のものは18世紀作だが、伝承では寺の創建に関わる大切な尊像だ。

 伝承によると、2世紀後半に、インドから来訪した高僧「カラーチャールヤ(黒師の意で、南インドのトラヴィダ人を思わせる)」は、ガジュマルの木の下に小屋を造り仏教を広めていた。同師は数々の奇跡を起こしたのちインドに帰ったが、このガジュマルの木が嵐の際、川に流されて、現在の法雲寺の近くに漂着した。

 すると、その日の夜、村人の夢に神が現れ、「ガジュマルの木から4体の神像を彫り出すように」とのお告げを下した。早速、彫ってみると、最初の神像が完成した際、五色の雲が上空に現れたので「法雲」と名付けて、寺院に祀ったと言うのだ。

 上堂の一番奥には、6世紀に中国からベトナムに禅宗を伝えた毘尼多流支(ヴィニタルシ)禅師の尊像があった。インドから中国に禅をもたらした、あの達磨(だるま)大師の孫弟子である。禅師はご遷化されるまでの14年間、この寺に住み、ベトナム仏教の主流派の一つ「毘尼多流支禅派」を創始した。

 ベトナム最古の寺とは言え、李朝や陳朝(10〜14世紀)まで遡るものは、伽藍の一部を飾る彫刻だけで、尊像群は、14世紀の再建と、それ以降の度重なる修復の際に造られたものだ。それでも法雲寺は、過去2000年近くにわたり、栄枯盛衰を繰り返しながら、多くの人々によって大切に護られ、受け継がれて来たのだ。

 伽藍の外に出ると、昼寝から覚めた尼僧たちが、乳児を囲んで談笑しているところだった。聞くと、乳児は女の子で、1カ月ほど前に山門前に置かれていたのだが、こんなことは初めてだと言う。皆、なにかとても嬉しそうで、この子の「母親」にでもなったかのようだ。

 法雲寺は、また、片田舎の小寺院の顔に戻っていた。

プロフィール

金子貴一(かねこ・たかかず)

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 秘境添乗員、フリーライター。1962年生まれ。元不登校児。高校時代、米国アイダホ州で一年間ホームステイ。大学時代は、エジプトの首都カイロに7年間在住し、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒業。留学を通して、「異文化間交流」の大切さを実感。在学中より、観光ガイド、ジャーナリストとして活動を開始。仕事等で訪れた世界の国・地域は100近く。著書に、「秘境添乗員」(文藝春秋)「報道できなかった自衛隊イラク従軍記」(学習研究社)
公式ブログ http://sea.ap.teacup.com/hachidaiga/

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