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秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き

五島列島 カクレキリシタンとカトリックの胸の内

2011年2月18日

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写真:「カクレとカトリックの信仰は違うのです」と語る、カクレキリシタン第9代大将(最高責任者)坂井好弘師夫妻拡大「カクレとカトリックの信仰は違うのです」と語る、カクレキリシタン第9代大将(最高責任者)坂井好弘師夫妻

写真:イエス・キリスト像と伝わる「神様」とロザリオ。箱の中には、江戸時代に奉納されたと思われる古銭も数枚入っていた拡大イエス・キリスト像と伝わる「神様」とロザリオ。箱の中には、江戸時代に奉納されたと思われる古銭も数枚入っていた

写真:「カクレも同じカトリックです」と語る、桐修道院のカトリック修道女・下本照子シスター拡大「カクレも同じカトリックです」と語る、桐修道院のカトリック修道女・下本照子シスター

写真:キリシタン洞窟には、今でも船でしか行くことはできない。私たちが訪れたときは波が荒く、再度挑戦して、船頭を狭い岩場にぶつける様にしてやっと着岸できた
拡大キリシタン洞窟には、今でも船でしか行くことはできない。私たちが訪れたときは波が荒く、再度挑戦して、船頭を狭い岩場にぶつける様にしてやっと着岸できた

写真:キリシタン洞窟は、若松島南端の断崖絶壁の底にあり、入口付近の高さと幅は共に約5メートル、奥行きが約50メートルのT字型洞窟だ
拡大キリシタン洞窟は、若松島南端の断崖絶壁の底にあり、入口付近の高さと幅は共に約5メートル、奥行きが約50メートルのT字型洞窟だ

写真:郷土史に詳しい下窄忠氏によると、3家族12人程が、明治2年3月から5月頃にかけて、キリシタン弾圧を逃れて洞窟内に隠れ住んでいたと言う。入ってみると、洞窟内は寒風が吹き抜け、ドーンドーンという怒濤の打ち付ける音が響く場所だった拡大郷土史に詳しい下窄忠氏によると、3家族12人程が、明治2年3月から5月頃にかけて、キリシタン弾圧を逃れて洞窟内に隠れ住んでいたと言う。入ってみると、洞窟内は寒風が吹き抜け、ドーンドーンという怒濤の打ち付ける音が響く場所だった

写真:新上五島町では民宿えび屋に宿泊して、私たちは極上の海鮮料理を満喫した拡大新上五島町では民宿えび屋に宿泊して、私たちは極上の海鮮料理を満喫した

 隠れキリシタン組織の第9代大将(最高責任者)を務める坂井好弘師のお宅では、約1時間半の長きにわたり、参加者も積極的に質問しての熱い質疑応答が繰り広げられた。

金子:現在、カクレキリシタンの組織はいくつあるんですか?

坂井大将(以下、大将):五島列島でカクレの組織は、ここしか残っていません。全国では、他に長崎市の外海地区に2つあるだけです。彼らとは交流があって、以前、うちに来た際に、「五島のカクレキリシタンたちが一番、昔のまま信仰している」と言われました。

 五島列島には江戸中期の1797年以降に、その外海から約3000人のカクレキリシタンが仏教徒を装って、荒地を開墾する農民として移住してきました。

 しかし、うちの初代が大将になったのは、移住より前のことだと思います。「大将」は、代々家内の家に受け継がれ、7代目の義父は50〜60年も大将をしていました。

坂井夫人(以下、夫人):私の父には男子がいなかったため、宗教を継いで欲しいが故に、私には高校の時から従兄弟という許婚(いいなずけ)がいたのです。

大将:実は、私は、元々は仏教徒で島の人間でもないんです。恋愛結婚をしてここに住むようになって、義父がお祈りしているのに気づいて、はじめてカクレキリシタンだとわかった。「洗礼を受けなさい」と言われたので受洗しましたが、気にはしていませんでした。当時は、義父には3人の付き人がいて、祈る時には納戸を閉め切って声を出さずに行っていたのです。

金子:なぜ、カクレキリシタンと分かったんですか?

大将:毎週日曜日になると、夜明け前に付き人たちが山道を歩いて来て、夜明けごろになると帰って行くのです。その際には、義父は、普段は着ない着物を着るものですから。

夫人:父は、ハマチの養殖を36年間もしていました。忙しかったけれど、お祈りもしなければならない。しかし、一度も愚痴を言ったことはないんです。そのお陰で、私たちは幸せになっていると思っています。

大将:大将になる人間は、正直であって嘘はつかない、人を騙さない。毎週日曜日には、大将だけがお祈りをするんですよ。現在の信者は14軒ですが、皆の名前を言って、その家族も守ってもらえるようにと。

夫人:その父の後を継いで8代目となったのは、今は86歳になる親戚でした。10年ほど大将をしていましたが、病気で入院してしまったのです。するとある時、病院から呼び出しがあって、「2人で来て欲しい。後を継いで欲しい」と言うのです。その時はもう(絶句)。私は継ぐことをお断りしてきたんです。父の様子は見て来ましたが、祈りの言葉もわからないし、オラショのノートを見ても内容もわからなかったから。

大将:私たちだけで決めることは出来ないんですね。信者の皆さんに図らなければならない。皆さんは、義父の養子となった私たちの長男が継いでくれるまでは、ということになった。私たちはあくまで中継ぎなんですよ。

夫人:息子は現在、結婚して33歳です。カクレにもお盆があるのですが、息子は3歳の頃から、小さいながらも父に付いて6〜7軒の檀家(だんか)を廻っていたんです。小さい頃から「自分が継ぐんだ」と言っていました。息子は、カクレのことをこうしてお見せするのも「とんでもない」と言うんです。息子の代になったら、「また、伏せたい」と言っています。

金子:ということは、こういう機会はなくなると言うことですか?

夫人:そうです。

大将:私は義父の付き人を30〜40年やって来て、先代の親戚にも一緒に来てもらってお祈りの仕方を習いました。ですから、息子も60歳で定年を迎えたら、私と一緒に廻ってやり方を覚えてもらいたいと思っているんです。そして、代々受け継いできた「神様」(ロザリオやイエス・キリスト像)を渡していきます。

 大将は、年に3回大きな行事の際に信者が祈りを捧げると言う、「神様」を手に取って見せてくれた。神様に触れることができるのは大将だけだという。

大将:12月24日の夜中に行うクリスマスでも、私が最初に祈りを捧げたあと信者にも「神様」を廻します。信者はこの箱の中をのぞき込むようにして見ながら、おさい銭を入れて願い事をするんです。

 一つの箱には「400〜500年前のロザリオ」が、もう一つの箱にはイエス・キリスト像と伝わる日本人的な金属製男性像と共に、江戸時代の古銭と5銭や1銭玉が入っていた。

 話が白熱してくると、大将夫妻は、カクレとしての心のうちを赤裸裸に語ってくれた。

大将:3年前(平成19年)の12月22日に「引き継ぎの儀」を行い、私たちが「神様」をお預かりして、大将になってから、カクレのことを少しでも興味がある人に披露した方がよかと思いました。それで、信者の皆さんにもクリスマスに集まった時に図って許可を得た。それで、公開するようになったんです。

金子:どうして、そういうお気持ちになったのですか?

夫人:何も知らないからだと思います(一同爆笑)。

私は本当に胸が痛くて、父が亡くなって12年になるんですけど、父に申し訳なくて、毎日、毎日・・(目に涙を浮かべる)。

大将:でも、これは日本の歴史です。もう、これは、先行き、絶対に無くなるんです。私は、あるうちに伝えていった方が良いと思うんです。だけど、家内やお年をとった人は、そういうもんじゃない。一切、人には触れさせたくない。見せたくないと言うんです。

夫人:この人は、NHKにも。絶対見せないって約束しているのに裏切ってから(一同爆笑)。その時は大喧嘩なんです。今でも葛藤があります。申し訳ないと言う気持ちの方が大きい。

参加者:今の時代、密にする必要はあるのでしょうか?

夫人:禁教令が解けて138年になります。ですから、隠さなくても良いんですけど、代々して来ているものだから、隠さなければいけない、隠していきたいと思うんです。そうでないと、ご先祖様に申し訳ないと思うんです。一方で、もう、オープンでも良いとも思う。

大将:そやけん。私も心が痛いんですよ。30〜40年も見て来たし、付き人もずーっとしてきて。

夫人:ほんと?(一同爆笑)そうなの!?今まで、そんなこと一言も言わなかったじゃない!

大将:それは心の中では。でも、それを吹っ切らんば。だから、対立すっとですたいね。

参加者:カトリックに対しては、どういうお気持ちをお持ちですか?例えば、この「神様」もイエス・キリストですよね?

大将:イエス・キリストですけど、カクレとカトリックとはぜんぜん交流はないのです。祈りの言葉も似ていますけど(オラショを唱え始める)。今のカトリックの聖書は3回ほど変わっていて、私たちのはその前のに似ているんです。

夫人:カトリックの人たちは、「自分たちと一緒なのにどうして教会に来ないの」と言うんですよ。でも違うんです。私の父の信仰とカトリックは違うんです。

金子:どのように違うんですか?

夫人:カクレは今でも密に守っているが、カトリックはオープンにしている。カクレは少人数で祈るが、カトリックは皆で祈る。カクレは御膳を作るが、教会ではパンとワインです。カクレが十字を切るのは受洗の時と亡くなった時だけですが、カトリックは何度でも十字を切る。

 実は、高齢の先代は、3年前に引き継ぎの儀をしてから、カトリックになってしまったんですよ(残念そうに)。83年間もカクレキリシタンで、30〜40年も付き人をやって、大将を10年もしていたのに。考えられないですよね。

大将:自分の最期と死後を見る子供たちがカトリックなものですから、泣き泣きカトリックに行くんですね。それはわかるんです。

夫人:それでも、その人から電話が掛かって来て、教会暦を毎年作るんですけど、「どこどこはわかっとるとね。わからなかったら聞いて」と。だからその人も名残があるんですよ。

大将:でも、昔からの仕来りで、一度、カクレからカトリックや仏教になった人は、もう2度とこの「神様」の前に来ることはできないんです。悲しそうなのはわかりますが、「いいから来んね」とは言えないんです。

 坂井大将夫妻の話に心を揺さぶられた私たちは、後ろ髪を引かれる思いで、次の目的地であるカトリックの桐修道院に向かった。

 ここでは、下本照子シスター(79歳)が出迎えてくれた。

「私は、先祖の信仰の遺産を受けて、神の計らいで、19歳のときに修道女となりました」。

 実は、シスターは、明治初年のキリシタン弾圧の際、「キリシタン洞窟」に隠れ住んで難を逃れようとした

隠れキリシタンの一人、山下久八を先祖に持つ、4代目の子孫なのだ。

 キリシタン洞窟は、若松島南端の大海に面した断崖絶壁の底にあり、現在でも船でしか訪れることはできない。シスターの話によると、そこに、ご先祖の久八ら3家族が潜んでいた。しかし、ある朝、洞窟から漏れた朝食の煮炊きの煙が沖行く漁船に怪しまれ、あえなく代官に捕まってしまう。連行された3家族は、海に投げ込まれ、浮き上がったら沈められ、浮き上がったら沈められる「水責め」、三角の角材を並べた上に正座させられ、太ももの上に重い板石を乗せていく「算木責め」といった過酷な拷問を受け、ついに、久八ら2名の家長は歩行困難になってしまう。その一部始終を見ていた当時9歳の久八の次女が晩年に話をしたことで、キリシタン洞窟が世に知られるようになったのだと言う。

 明治5年に戸籍が作られることになると、平民の多くは地名を姓として名乗ったが、代官たちは、キリシタンには軽蔑の意味を込めて、「下(しも)」の文字を入れた姓を付けた。

「下本、下山、下村、山下・・・、もう、下ばっかりです。しかし、今では、その軽蔑の文字が信仰の証となっています」。

 シスターの話のあと、私は、参加者を代表して、疑問点を正していった。

金子:ご先祖様がキリシタン洞窟で受難されたわけですが、隠れキリシタンからカトリックに変わったのは何代前からですか?

シスター:初めからずーっとです。久八も幼児の時からカトリックです。カトリックだったけれども禁教令で、信仰はしてはいけないと言うことになってたでしょう。

金子:すると、あくまで、潜伏はしていたけれども、最初の先祖からシスターまで、ずっとカトリックとして変わらなかったと言うことですか?

シスター:そうです。

 シスターのきっぱりとした答えに、会場には静かなどよめきが起こった。カトリックとカクレは別の信仰と見る坂井大将夫妻の考え方との違いが、明確に浮かび上がって来たからだ。

金子:今でもカクレキリシタンを称する人々をどう思いますか?

シスター:信仰は自由になり、隠れなくても良くなったのですから、公に出て来て、教会に帰ってもいいと思うんです。

金子:カクレキリシタンも同じカトリックなのですか?

シスター:そうです。ですから、いつでも教会にいらっしゃいと言うんです。私の親戚にもカクレをしている人がいて、『おじちゃん、出ればいいとね』と言ったら、『おばあちゃんが先に逝っとるが、(カトリックになると)おばあちゃんの墓に行かれないから』と。私は、『いや、そんなことないよ』と言ったんですけど、そういうちょっとした考えの違いがあるんですよ。

 ある参加者からは、旅が終わったあと、次の様なメールが届いた。

「今回の旅で、今まで良く分からなかったカクレキリシタンとカトリックとの関係が、やっと理解でき、腹に落ちました」。

 そうなのだ。山神神社の例大祭に始まり、坂井大将夫妻、そして、下本シスターとの交流という一連の流れが、参加者の「隠れキリシタン」への理解を深めてくれたのだ。しかし、当初の日程では、下本シスターの桐修道院には、この日の最初に行く予定だった。それが、台風によるフェリーの欠航で、これ以上あり得ないという絶妙な流れに変わったのだ。それは、正に「神の采配」とでも言うべきものだった。

・五島列島の隠れキリシタン:

 戦国時代の1566年、ポルトガル人と日本人の2人のカトリック修道士が五島列島を訪れ、領主・宇久純定の病気治療を通して信頼を得て布教を開始。やがて、各地には教会堂が建ち、信徒は2000人を超えた。しかし、江戸時代に入り1614年に禁教令が発布されると、宣教師は追放され、キリシタンは弾圧された。一度は消滅した五島列島のキリシタンだったが、江戸中期の1797年以降には、幕府の荒地開墾奨励政策を受けて、長崎の外海から約3000人の仏教徒を装った潜伏キリシタンが五島列島各地に移住した。

 江戸末期の1865年、長崎の居留地に建った大浦天主堂(カトリック教会)に潜伏キリシタンが訪れ、禁教令により最後の神父(日本人)が殉教してから229年ぶりに神父(フランス人)と再会。この「信徒発見」のニュースは瞬く間に広がり、当時のローマ教皇は「東洋の奇蹟」と言って感激したという。神父再来のニュースは五島列島にも伝わり、信徒代表らがこぞって大浦天主堂を訪問。ついには、五島列島・久賀島の信徒たちが役人に信仰を表明したことをきっかけに、明治元年には五島列島のキリシタン弾圧が始まった。これらの事件は、列強諸国の反発を招き、明治政府は、ついに、明治6年(1873年)、江戸時代以来の禁教令を廃止。その後、五島列島では外国人宣教師による布教が行われ、明治13年(1880年)には信徒数が6000人を数えたという。

 一般的に「隠れキリシタン」と呼ばれている人々は、学術的には、江戸時代の禁教令下で信仰を守った「潜伏キリシタン」と、明治6年(1873年)に禁教令が解かれたあとも、カトリックには戻らず、禁教令下と同じ秘教的信仰形態を守り続けた「カクレキリシタン」とに分かれる。カクレの信仰は、カトリックから出発したものの、禁教令下の聖職者不在のなか、仏教や神道の影響も受けて独自の進化を遂げていた。

プロフィール

金子貴一(かねこ・たかかず)

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 秘境添乗員、フリーライター。1962年生まれ。元不登校児。高校時代、米国アイダホ州で一年間ホームステイ。大学時代は、エジプトの首都カイロに7年間在住し、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒業。留学を通して、「異文化間交流」の大切さを実感。在学中より、観光ガイド、ジャーナリストとして活動を開始。仕事等で訪れた世界の国・地域は100近く。著書に、「秘境添乗員」(文藝春秋)「報道できなかった自衛隊イラク従軍記」(学習研究社)
公式ブログ http://sea.ap.teacup.com/hachidaiga/

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