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秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き

隠れキリシタン紀行:最後の晩餐は質問攻め

2011年2月24日

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写真:中通島の湾を見下ろす高台に建つ「青砂ケ浦教会」(国指定重要文化財)のステンドグラス。1910年、外国から取り寄せた原書をもとに設計施工し、信徒総出でレンガ運びをして完成させた「レンガ造り教会堂の完成形」。全国の教会堂の約1割が長崎県内にあり、更に、その4割が五島列島に集中する拡大中通島の湾を見下ろす高台に建つ「青砂ケ浦教会」(国指定重要文化財)のステンドグラス。1910年、外国から取り寄せた原書をもとに設計施工し、信徒総出でレンガ運びをして完成させた「レンガ造り教会堂の完成形」。全国の教会堂の約1割が長崎県内にあり、更に、その4割が五島列島に集中する

写真:日島曲古墳群。五島列島を拠点に、日本本土、朝鮮半島、中国大陸を繋ぐ海上交易ネットワークを築き上げた14〜15世紀の前期倭冦の墓碑群。背後には、生前の彼らが活躍した大海原が広がっていた
拡大日島曲古墳群。五島列島を拠点に、日本本土、朝鮮半島、中国大陸を繋ぐ海上交易ネットワークを築き上げた14〜15世紀の前期倭冦の墓碑群。背後には、生前の彼らが活躍した大海原が広がっていた

写真:早朝、中通島の有川町漁協・魚市場で水揚げを見学後、私たちは隣接する「海創館」で漁師料理に舌鼓を打った拡大早朝、中通島の有川町漁協・魚市場で水揚げを見学後、私たちは隣接する「海創館」で漁師料理に舌鼓を打った

写真:久賀島にある旧五輪教会(1881年創設。国指定重要文化財)に祀られた聖母子像拡大久賀島にある旧五輪教会(1881年創設。国指定重要文化財)に祀られた聖母子像

写真:旧五輪教会近くにある五輪墓地。左右に並んだ西洋的カマボコ型(伏碑型)墓碑、丸石を重ねた配石墓、そして、左奥には、子孫の都市部への引っ越しに伴い、骨が上げられたのち、捨て置かれた墓碑群が見える拡大旧五輪教会近くにある五輪墓地。左右に並んだ西洋的カマボコ型(伏碑型)墓碑、丸石を重ねた配石墓、そして、左奥には、子孫の都市部への引っ越しに伴い、骨が上げられたのち、捨て置かれた墓碑群が見える

写真:久賀島にある塩濱神社のレリーフ像。持ち物は斧のように見えるが、実は、錫杖を持った地蔵菩薩ではないだろうか。だとすると、神社に祀られた仏像ということになり、神仏習合時代のご祭神の本地仏である可能性が高い
拡大久賀島にある塩濱神社のレリーフ像。持ち物は斧のように見えるが、実は、錫杖を持った地蔵菩薩ではないだろうか。だとすると、神社に祀られた仏像ということになり、神仏習合時代のご祭神の本地仏である可能性が高い

写真:中通島の政彦神社では、夜間に国選択無形民俗文化財「上五島神楽」を鑑賞。私たちだけのために全身全霊で演じてくださった神楽と、吉村政徳宮司(写真中央)の知的で軽快なトークに、皆、拍手喝采だった拡大中通島の政彦神社では、夜間に国選択無形民俗文化財「上五島神楽」を鑑賞。私たちだけのために全身全霊で演じてくださった神楽と、吉村政徳宮司(写真中央)の知的で軽快なトークに、皆、拍手喝采だった

 2010年11月2日、五島市福江町での夕食が、国内企画旅行「隠れキリシタン紀行:五島列島編」の最後の晩餐となった。城下町情緒漂う武家屋敷通りに近い旅館中本荘の一室で、総勢17名の参加者(仕事などの関係で、7名は旅の前半のみで離団していた)は、座卓にところせましと並ぶ新鮮な海鮮料理を囲んで、思い思いの会話で盛り上がっていた。当初は見知らぬ同士の集団だったが、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島と5泊6日の旅が進むにつれ、強い絆を感じさせる「仲間」へと深化していた。

「聞かれる方は、お聞きになってください!」

 私は皆の喜ぶ姿を嬉しく思いながらも、談笑をさえぎる様に大声で語りかけた。

 実は、二人のゲストをお招きしていたのだ。長崎ウエスレヤン大学で教鞭をとる五島列島のキリシタン研究者で、在住4年目の加藤久雄先生(以下、先生)と、カクレキリシタンの文化の継承者の木口榮氏である。カクレキリシタンとカトリックの信仰と文化をメインテーマに、古代には遣唐使船の日本最後の寄港地として、中世には倭冦の拠点として栄えた「日本と大陸を結ぶ中間地点としての五島列島」をサブテーマとして集中的に見学した旅を振り返り、参加者の疑問や質問をぜひ、先生方にぶつけて欲しいと思ったのだ。

 その趣旨に応えるかのように、1時間半にわたる夕食会では、先生方が食事を口にする暇もないほど、矢継ぎ早にくる参加者たちの専門的な質問に、「こんなにレベルの高い観光客ははじめて!」と感嘆の声を上げられたのだった。

 私たちは2つのグループに分かれて、それぞれゲストを囲んでの質疑応答が始まった。

金子:久賀島で国指定重要文化財の旧五輪教会に行った際、近くの五輪墓地で3種類の墓碑を見ました。丸石を重ねたもの、カマボコ型で十字架を刻んだもの、近代的なものですが、歴史的に一番古いキリスト教墓碑はどれですか?

先生:長崎の外海から潜伏キリシタンが移住してきた江戸時代、18世紀末から19世紀中期のもので、四角く石を組み真中に石を立てたものや石を立てないものもあります。

金子:当時、禁教令で十字架を刻むことは出来なかったのに、なぜ、キリスト教墓碑だと分かるのですか?

先生:外海のキリスト教墓碑と似ていること、このような墓碑に近世期の紀年墓石(近代になって子孫によって)が載せられること、「先祖がここに埋まっている」という伝承からわかります。これは最新の調査結果です。

金子:キリスト教徒の埋葬の仕方とは、どのようなものですか?

先生:カクレキリシタンの場合、頭を南か東を向けて埋葬されます。仏教の西方浄土に対する見えざる自己主張なのかもしれません。

 しかし、そのようなことは五島のカトリック教会墓地では見られません。明治6年に禁教令が解かれてカトリックになってからです。頭位ですが、復活の際におきあがった場合、教会墓地の中心十字架をに向かえるように頭を中心十字架の反対の方向に向けます。そのカトリック墓碑は、自分たちのアイデンティティを表すように十字架を刻んだカマボコ型(伏碑型)の西洋的墓制になります。同じタイプは、すでに長崎の近世のオランダ人などの西欧人の墓碑などに見られるのです。その西洋的墓石を作る技術は日本人にも伝えられましたが、五島の久賀島には、技術者が長崎からそのために来られたのかも知れません。

参加者:それはどうやって調べるのですか?文献ですか、聞き取り調査ですか?

先生:民衆史ですので、文献はないのです。墓の形状と年代から考古学的調査をおこない、さらに聞き取り調査を重ね、技術系譜が近いことを確認して、総合的に判断した結果です。

金子:すると、丸石を重ねた墓(配石墓)は?

先生:あれは、墓石を乗せる前に、死者の位置を確認するために丸石を敷くのですよ。しかし、他所への移住や経済的などの事情で墓石を乗せられない人が、丸石のままの墓碑となるんです。

金子:墓地の周囲には墓碑が重ねて捨てられていました。

先生:久賀島では人口が一時、約4000人にまで達しましたが、高度経済成長期の人口の都市への流出や近年、産業がほとんどなくなってしまい、現在ではその1/10の約400人に激減してしまいました。島から都会に引っ越す人が先祖の骨だけ持って行き、墓石はそのまま廃棄されてしまうのです。

金子:ご存知の範囲で、五島列島にはカクレキリシタンはどれだけ残っていますか?

先生:五島全体で、組織は5つ位残っているのではないでしょうか。奈留島が2つ、上五島が1つ、福江島が1つ半です。奈留島では組織が2つ残っていて葬儀なども行っていますが、組織を構成するのは数軒のみで存続が危ぶまれています。福江島の半分とは、同席している木口さんのことです。親の代までカクレで、本人は先輩などに聞きに行ってもう一度勉強し直して文化を残そうと動いているのです。人数的には五島全部で多くみても数十名でしょう。私は、カクレキリシタンの習俗や文化は、国指定文化財として保存すれば良いと思っています。

金子:奈留島のどこにあるのですか?

先生:何年も掛けてやっと調査に入った組織で、「言わないで欲しい」と言われているので、これ以上は言えません。本気で研究して、何回も通い続けて、相手に信頼してもらわないといけません。聞き取り調査を行っても、学術発表をさせてもらえない場合もあります。そんな中で、下五島で、会ってくれるカクレキリシタンの文化の継承者と言えば、木口さんくらいです。そこで、今日は、木口さんをお連れしたわけです。

参加者:貴重な存在ですね。

金子:五島と他の地域のカクレキリシタンの文化に違いはありますか?

先生:五島のカクレキリシタンの文化は長崎の外海から来たので、文化の多くは外海式です。それに対して、五島や外海とは別系統であり、長崎県平戸市生月島のカクレキリシタンは、そこで、独自の文化が形成されました。

金子:生月島は、以前の「隠れキリシタン紀行シリーズ」の旅で行って、オラショを聞かせて頂きましたが、マリア様から日本の神様までお名前をずーっと呼んで招来してからオラショを始めますね。

先生:こちらの五島では、あまり「神寄せ」はしないです。「神寄せ」とよんでいいのかわかりませんが、声に出さないで神々への祈りを連祷するのですが、生月ほど激しくはない。もっとも、それぞれのカクレキリシタンの文化も、時代と共に中身が変容しています。

 もともとはカトリック文化ですので、教会暦に従って何日にどの聖人を祈るか、祝日と言うことが重要視されていました。そこで五島のカクレでは、教会暦の作り方が、帳方と言う組織の最高責任者の家で世襲されたのです。ところが、時間の流れと共に、地元の生活習慣が入ってきて、教会暦にお盆のような意識とか、麦類の収穫とサツマイモの植え付けが済んだ時期にある「サクアガリ」と呼ばれる祭日とか、「さわりがあるからこうしてはいけない」と言った日も混ざってくるのです。

金子:カクレキリシタンの家で、弘法大師空海が祀られているところが多いように思うのですが、関連性はあるのですか?

先生:弘法大師は、観音とセットで祀られることもあります。弘法大師像については、おそらく何らかの神をあらわすものでしょう。観音とはおそらくマリア観音です。近世期には白磁の観音像を聖母マリアにみたてて信仰を行なっていました。白磁のマリア観音像は、はじめからマリア像を意図して中国で作られ、輸入されたものが多いです。例えば、清代の中国で描かれた聖母マリアの絵は、観音そっくりです。

金子:中通島の岩家観音にも行ったのですが、山中の巨石の中の洞窟には、男女2体の観音像がセットで祀られていました。カクレキリシタンと何か関係はありますか?

先生:外海では岩の中にカクレキリシタンの祈祷地があったりします。また福江島にもこうした岩屋をカクレキリシタンの方々が信仰地として大切に守ってきたところがあります。ですから、岩家観音の観音像は、潜伏キリシタンがマリア観音として祀った可能性もあります。

 ただし、学術的には、簡単に何でも「隠れキリシタンの痕跡」とすることはできないのです。検証が出来なければ、「保留」としなければならない。ロマンはありますけどね。それから、昭和のキリシタン・ブームで作られたまがい物が沢山出てくるのですよ。中部地方の業者が昭和初期に作った「仏像が乗っている十字架」が、骨董品屋で高値で売られていたりですね。

金子:久賀島では、潜伏キリシタンが塩を作ったとされる釜が残る塩濱神社に立ち寄りました。本殿の脇には石の祠が2つあり、内部の壁面には像が浮き彫りにされていますが、あれは本地仏(神の背後にいる親としての仏)ではないですか?

先生:可能性はあると思いますが、今後の課題です。

金子:斧の様な持物を持っていますが、実は錫杖で、像自体は地蔵菩薩ではないかと思うのですが。五島では地蔵信仰が盛んではないですか?

先生:実はですね。石造の観音と言われ信仰されているものも、確認すると地蔵菩薩だったりすることもあるのですよ。観音様と言われているものが、地蔵だったりすることもあるのです。非常にごちゃごちゃしています。

参加者:今まで研究をされて来て、定説とは違う先生独自の見解はありますか?

先生:江戸時代の1800年前後に、大村藩の外海(現在の長崎市の一部)から五島藩(五島列島の大半)に渡った潜伏キリシタンは、一般的に言われているように「逃げてきた」ということだけではないということです。多くが五島藩と大村藩の政治的駆け引きのなかで行われた「公式移住」なのです。

 大村藩は、外海の農民の多くが潜伏キリシタンであることを知っていた。ましてや、移住が行われたのは、西九州近海にも国交のない欧米諸国の船があらわれた時期です。これは推測ですが、大村藩は潜伏キリシタンと欧米諸国の勢力と連動することを恐れていたのではないかと思います。そこで、追い出したかった。

 その大村藩のサツマイモの生産の技術は高く、他の藩に飢饉が起こっても、大村藩は豊かであった。その種芋を青木昆陽が研究し、江戸近郊の食料危機を救ったこともある。イモは水が少ない荒地でも育つ高炭水化物の野菜です。一方で、人口が少なく農地も少なかった五島藩は増産政策をとっていて、ご禁制のキリシタンでも山間僻地が開拓できる高度な技術を持った農業移民が欲しかった。そこで、両藩の利害が一致して公式移住が行われたのです。

 また、民衆レベルで見ると、大村藩では人口政策のため、家督や結婚年齢、産児などに制限を行なっていました。また人口増加のため子殺しを強要していたというキリシタンの伝承が挙げられます。潜伏キリシタンとしては、教理に背いて自分たちの子供を殺すよりは、五島に移住して育てた方がよいと思ったわけです。また、キリシタン監視が厳しい大村藩より、相対的に寛容であった五島藩に行ったほうが良いと。

金子:今日見学した福江島の古刹・大宝寺のご住職は、「過去帳を見ると、江戸時代には檀家の多くは隠れキリシタンだった」と仰るんです。「どうして分かったんですか」と伺うと、「隠れキリシタンの集落出身の名前が記載されているから」言うんです。江戸時代の五島の住職は、檀家に潜伏キリシタンがいたことは分かっていたんでしょうか?

先生:おそらく潜伏キリシタンと分かっていて檀家にしていますよ。内々にしていてくれと。信徒発見の後、長崎の外国人宣教師は、信仰宣言すること、これまで持っていたキリスト教以外の信仰物を許可しないという指導をしたのですよ。一方で、五島藩の役人は内々に祈っている限りは黙認するような立場だったんです。

参加者:だから、明治元年に久賀島で「自分たちはキリスト教徒」と宣言した人々には、「牢屋の窄事件」と言う形で弾圧せざるを得なくなってしまったわけですね。

先生:そうだと思います。(一同、ため息をつく)

参加者:禁教令が解けたあと、潜伏キリシタンたちの信仰はどうなったのですか?

先生:一番多くはカトリックになった人々です。しかし、代々カクレキリシタンを守って来た先祖への想い、これは、日本人のもつ先祖崇拝と重なってきますね。そして、当時のカトリック教義が厳格であったこと、そして、信仰するにあたって様々な負担もあって、なかなかカトリックには入って行けなかったのです。しかし、多くは長い時間を経て、結婚などを通してカトリックになって行きました。次に多かったのは、神道に改宗した人々。神道は、キリシタンの聖人と考えられるものが祭神となった神社があるように、多様性と自由度が高く、経済的負担の面でも、受け入れやすかったのです。

 長崎県内ではキリシタンのイメージがまだ残っていて、高齢者の中にはカトリックに対して抵抗がある人もいると思います。しかし、都会ではインテリ層などでカトリックのイメージが良いので、都会に行って出身地域や信仰を共にする共同体を形成して教会を建て、支える人もいます。浦川司教の『五島キリシタン史』でも勉強して教育水準を上げ、社会的地位を上げるようにと教えられているのです。そして多くが、都会に行き活躍するのですよ。

 木口さんの一世代前でしたら、カクレキリシタンはカクレキリシタン同士で結婚していました。また、当初、カトリックは教外の人との結婚を原則的に禁止するなど規制が厳しかったのです。しかし、1960年代の第2バチカン公会議以降、日本語ミサや地域への順応などと、教義が寛容になったので、それに伴い結婚しやすくなりました。もし、明治初頭の禁教令廃止の際、今のカトリックの様な寛容な教義でしたら、潜伏キリシタンは、皆、カトリックになっていたと思います。

参加者:(口々に)今日の話は、本当に面白かったです。ありがとうございました。

先生:五島にはこの様な興味深いテーマが一杯あります。カクレキリシタンのテーマだけでも、1回だけではわからないですよ。皆さん、是非、10回は来てください。(一同爆笑)

 最後の晩餐を通して、参加者は今回の五島列島の旅で生じた疑問点を解消することができ、更に、五島の歴史と文化への理解と親近感を深めることが出来たのだった。

プロフィール

金子貴一(かねこ・たかかず)

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 秘境添乗員、フリーライター。1962年生まれ。元不登校児。高校時代、米国アイダホ州で一年間ホームステイ。大学時代は、エジプトの首都カイロに7年間在住し、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒業。留学を通して、「異文化間交流」の大切さを実感。在学中より、観光ガイド、ジャーナリストとして活動を開始。仕事等で訪れた世界の国・地域は100近く。著書に、「秘境添乗員」(文藝春秋)「報道できなかった自衛隊イラク従軍記」(学習研究社)
公式ブログ http://sea.ap.teacup.com/hachidaiga/

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