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秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き

「日本の伝統 神仏習合(2)」

2011年3月28日

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写真:伊勢の金剛証寺山門に安置された雨宝童子像。神仏習合時代、金剛証寺は伊勢神宮内宮の奥の院とされ、お伊勢参り参拝客が必ず訪れる場所だった。雨宝童子は、天照大神が降臨された時の16歳のお姿を、後世、弘法大師空海が彫ったと伝わる仏像で、大日如来の化身であると言う。また、この雨宝童子こそが、お伊勢参りのご神体であったという。(c)泉田茂樹拡大伊勢の金剛証寺山門に安置された雨宝童子像。神仏習合時代、金剛証寺は伊勢神宮内宮の奥の院とされ、お伊勢参り参拝客が必ず訪れる場所だった。雨宝童子は、天照大神が降臨された時の16歳のお姿を、後世、弘法大師空海が彫ったと伝わる仏像で、大日如来の化身であると言う。また、この雨宝童子こそが、お伊勢参りのご神体であったという。(c)泉田茂樹

写真:日本最古の神社と言われる大神神社も奈良時代から神仏習合が行われていた。写真は境内にある若宮社。明治初年までは大神神社の神宮寺で大御輪寺と称し、若宮の大神と十一面観音が共に祀られていた。中世には神仏習合の「三輪流神道」の総本山として栄えた拡大日本最古の神社と言われる大神神社も奈良時代から神仏習合が行われていた。写真は境内にある若宮社。明治初年までは大神神社の神宮寺で大御輪寺と称し、若宮の大神と十一面観音が共に祀られていた。中世には神仏習合の「三輪流神道」の総本山として栄えた

写真:神仏習合最後の神道「雲伝神道」は、真言宗の高僧・慈雲尊者によって江戸中期に創唱された。仏教者によって唱えられたにも関わらず「神」主「仏」従の神道だった。写真は大阪府・高貴寺にある慈雲尊者の墓拡大神仏習合最後の神道「雲伝神道」は、真言宗の高僧・慈雲尊者によって江戸中期に創唱された。仏教者によって唱えられたにも関わらず「神」主「仏」従の神道だった。写真は大阪府・高貴寺にある慈雲尊者の墓

写真:日吉大社にある山王鳥居。上の三角形の部分は、密教における仏の世界である両部曼荼羅を表している拡大日吉大社にある山王鳥居。上の三角形の部分は、密教における仏の世界である両部曼荼羅を表している

写真:日吉大社の西本宮。建築様式は「日吉造」と呼ばれ、一見寺院風の入母屋造りで、床下には明治の神仏分離まで本地仏を安置した「下殿」と称する部屋があった。写真の階段下に下殿の入口がある拡大日吉大社の西本宮。建築様式は「日吉造」と呼ばれ、一見寺院風の入母屋造りで、床下には明治の神仏分離まで本地仏を安置した「下殿」と称する部屋があった。写真の階段下に下殿の入口がある

写真:下殿内部。現在は特別祈祷を行う部屋だが、神仏分離以前には、当時「大宮(大比叡)」と呼ばれた西本宮の本地仏・釈迦如来像が祀られていたに違いない拡大下殿内部。現在は特別祈祷を行う部屋だが、神仏分離以前には、当時「大宮(大比叡)」と呼ばれた西本宮の本地仏・釈迦如来像が祀られていたに違いない

写真:藤原鎌足公をご祭神として祀る談山神社の秘仏・如意輪観音像。談山神社は、神仏分離以前は「多武峯寺」または「多武峯妙楽寺」と呼ばれる寺院だった拡大藤原鎌足公をご祭神として祀る談山神社の秘仏・如意輪観音像。談山神社は、神仏分離以前は「多武峯寺」または「多武峯妙楽寺」と呼ばれる寺院だった

ドンドコ! ドンドコ! ドンドコ! ドン!

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経〜!」

 2009年3月、伊勢の金剛証寺本堂には、恰幅の良い若い僧侶が打ち鳴らすビートの効いた太鼓の音と、力強く唱える般若心経が響き渡っていた。隣のお客様は、「ロック調で良いですね!」としきりに感心している。ご祈祷をお願いした私たちは、普段は入ることができないご内陣に正座して、真摯な気持ちで読経に聞き入っていた。

 「お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ、朝熊かけねば片参り」

 古来、このように唄われてきた金剛証寺は、伊勢神宮内宮の北東約5キロメートルの朝熊山中腹にあり、「伊勢神宮内宮の奥の院」として、お伊勢参りでは必ず訪れる場所だった。しかし、「明治初年の神仏分離の際、お伊勢参りから外されてしまったのです」と、寺の僧侶は言う。

 ご内陣には数々の仏像が祀られているが、中央にはご本尊である、閉じられた厨子内に安置された秘仏の虚空蔵菩薩像(宇宙のように無量の福徳と智恵を蔵する菩薩)と、伊勢神宮内宮のご祭神・天照大神を現す大きな鏡が前後して祀られていた。

 脇侍として祀られているのは、雨宝童子(うほうどうじ)と言う聞き慣れない仏像である。調べてみると、雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに日本の日向に降臨されたときのお姿で、宇宙の真理を現す大日如来(別名:盧遮那仏、るしゃなぶつ)の化身として、弘法大師空海が朝熊山でのご修行中に感得され、彫られた尊像だという。つまり、神仏習合時代、雨宝童子は天照大神と一体と考えられていたのであり、神仏分離までは、全国から来たお伊勢参りの参拝者が、天照大神のご神体として、雨宝童子像を購入して故郷に持ち帰ることもあったのだ。

 伊勢神宮と金剛証寺を訪れた直後の2009年7月、私は、東京国立博物館で行われた「伊勢神宮と神々の美術展」を見に行った。そこでは、更に驚くべき「新事実」を知る事となった。

 伊勢神宮にも、飛鳥時代の698年には神宮寺ができて、仏教の影響が入り始めた。奈良時代の東大寺建立に際しては、伊勢神宮に祈願をしたところ、聖武天皇に「天照大神は大日如来であり、本地は盧遮那仏(=奈良・東大寺の大仏)である」とのご神託がくだったという。

 それが、平安時代になり、神仏習合思想の「本地垂迹(ほんじすいじゃくせつ)」が流布すると、天皇家の皇祖神である天照大神は、大宇宙の真理である盧遮那仏が、衆生を救済するために神の姿となって降臨したものと考えられるようになった。つまり、毘盧遮那仏と天照大神の関係を、「上司と部下」、または、「親子」のように捉えた。この考え方が、日本人の一般的な認識として神仏分離まで続くことになったのだ。

 その後、東大寺は、大仏再建の度に、大々的な伊勢参宮を執行して神前読経を行い、南都・奈良をはじめ全国の僧侶の参詣も時代を追って増加していった。その中には、鎌倉時代に法華神道を創唱することになる日蓮上人もいる。

 展示物には、伊勢神宮の内宮外宮の「御正体(みしょうたい)」として、密教の2つの仏の世界である金剛界と胎蔵界の大日如来を中心とする曼荼羅があった。内宮を胎蔵界、外宮を金剛界と同体と考えての曼荼羅である。

 一方、神宮に仕える神官にも仏教は浸透していった。神官の中から出家する者は跡を断たず、神官により建立された仏像が展示され、神官の葬儀は仏式で行われ、神官の極楽往生を願って写経された仏経典を経塚に埋めた際に使われた「経筒」も展示されていた。

 その様な伊勢神宮の神仏習合の終わりの始りが、江戸時代初期の幕府の政策だった。1669年の遷宮の際には、それまでの慣例を排して、寺院が勧進することを止めさせ、更に、伊勢神宮の仏教色を排除するようにと、伊勢神宮の実質的最高責任者である内宮長官に要請している。難色を示したのは内宮長官の方だった。しかし、幕府は将軍や老中の意を受けたものとして強く迫ったため、長官は誓約せざるを得なかったという。その神仏習合思想への最後のとどめが、明治初年の神仏分離政策だったのだ。

 私は、今回の記事執筆のため、滋賀県大津市の比叡山の麓にある日吉大社を訪れた。平安時代に天台宗を開いた伝教大師最澄により比叡山上に延暦寺が建立された後、天台宗の護法神や伽藍神として神仏習合が最も進んだ神社のひとつである。平安時代からは日吉大社の役職の任命権は延暦寺にあり、江戸時代には経済的にも延暦寺の管理下となった。その日吉大社が、公布されたばかりの神仏分離令を最初に実行に移す舞台となったのだ。

 1868年、明治新政府の神祇官事務局(祭祀・宣教をつかさどる政府の最高官庁)を中心とする人々は、日吉大社内の仏像、梵鐘、経典、掛け軸などを境内から放逐し、燃える物は火にくべ、金属は大砲や貨幣鋳造のために押収した。これが神仏分離の先例となり、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れることになった。

 劇的だったのは、寺院でありながら、中世に「守護大名」としての勢力を誇り、現在の奈良県を実質的に支配した興福寺だ。藤原家の氏寺である興福寺は、やはり藤原家の祖神を祀る春日大社を鎮守として管理下に置いていたが、廃仏毀釈で広大な寺領は没収され、百名以上の全ての僧侶は還俗か春日大社の神官にさせられた。興福寺は廃寺同様となり、奈良時代以降の多くの経典は商店の包み紙として使われ、千体以上の仏像は流失して破壊されたり薪として燃やされたりした。更に、今でこそ国宝の五重塔は、現在の2万円程度で売り飛ばされた。その結果、旧境内地の大半は、現在では、奈良県庁、県警本部、税務署、奈良公園などの公共施設の敷地になっている。更に、明治政府の廃寺政策は全国規模で展開され、特に富山藩では、それまで1675ヶ寺あった寺院が6ヶ寺にまで激減させられるなど、熾烈を極めた。

 私は、廃仏毀釈の発端となった日吉大社での出来事を、インタビューに応じてくださった2名の権禰宜に伺った。

 「神社側にとっては、持て余すものをお焚き上げしたに過ぎないのです。実は、江戸初期に、廃仏毀釈がすでに行われているのです。神主が、神仏習合を許せず、唯一神道にしたくて、僧形のご神体を勝手に持ち出して燃やしてしまったのです。すると、延暦寺が幕府に訴えて裁判となりました。その結果、日吉大社は負けてしまい、神主は島流しとなり、延暦寺の完全な管轄下に入ってしまいました。その後、延暦寺からは、『祭りと掃除だけしていれば良い、何かする場合は延暦寺の許可を得よ』という趣旨の掟が来ます。当時の神官たちの気持ちは、正に臥薪嘗胆だったと思います。社家のお家断絶もありました。

 それから200年ほど経って時来たりということで、廃仏毀釈が行われたのだと思います。仏像仏具を延暦寺に返せば、円満に解決したのでしょうが、裁判事件があったのであのような行動になったのでしょう。しかし、廃仏毀釈の際に、今まで崇敬していた物を破壊するのは忍びないと、仏像仏具などを隠したりかくまった神官や氏子も多くいるのです」。

 仏教では十界を説く。宇宙が十の心の世界に分かれているというのである。主な世界は、下から、地獄界、餓鬼界(欲しい惜しいの心が強い人々の世界)、畜生界(動物的な行動をする衆生の世界)、修羅界(戦いや争いを好む人々の世界)、人間界、天界(神々の世界)、菩薩界(悟りを求めて修行し、人間や神々を救う菩薩の世界で、観音菩薩、地蔵菩薩などが有名)、仏界(悟りを開いた如来の世界で、釈迦如来、薬師如来、大日如来、阿弥陀如来などが有名)である。しかし、地獄界から天界までは、「六道輪廻」と言って苦しみの世界であり、これらを超越した菩薩や如来などが輪廻の苦しみから解脱した存在である。

 仏教では、神々は、衆生を救済すると共に、如来や菩薩に仕え、守護し、如来や菩薩から救済される存在である。歴史的には、仏教が発祥し伝播した、インド、中国、チベット、日本などでは、元々存在した宗教の神々が仏教に摂受(慈悲を持って包み込むこと)され、仏教と共に共存共栄してきたのだ。それが、日本においては、聖武天皇以降、神仏分離まで、実に1119年の長きに亘って人々の間に浸透した神仏習合思想であった。

 私は、一神教の宗教間の対立が頻発する現代世界において、摂受や神仏習合をはじめとする諸宗教共存共栄の思想は、大きな意味を持っていると思っている。

 しかし、それは、あくまで、思想やイデオロギーだけで解決するものではなく、その思想を発信する人々の質が大きく問われていることを、日吉大社の方々に教えて頂いたと思った。私は、深い感謝の念を込めて、仏教と神道の合一を現す山王鳥居の前で深く頭を垂れ、日吉大社をあとにした。

その後の神仏習合:

 神仏分離令に端を発する熾烈な廃仏毀釈で壊滅的打撃を受けた神仏習合思想は、古都奈良など日本の一部で細々と命脈を保ってきたに過ぎなかった。それが、最近、復活の兆しが見えてきたのだ。

 昨年行われた平城遷都1300年祭では、平城宮跡で開催された記念祝典にご臨席された天皇・皇后両陛下の御前で、奈良諸寺の僧侶18名が般若心経を読誦した。これは、奈良時代に国家安泰を願って経典読誦が行われたことを再現したものだが、神仏分離で皇室から仏教色が排除された近代日本においては「初めてのこと」と考えられている。

 やはり昨年、三大八幡宮のひとつである石清水八幡宮で行われた鎮座1150年記念行事では、同宮の神職と清水寺の僧侶が神仏合同形式で法要を営んだ。同宮で僧侶による法要が行われたのは神仏分離以来、実に142年ぶりのことである。石清水八幡宮宮司は、感慨を込めて「神仏和合の姿がよみがえった。新たな歴史の1ページになります」と語ったという。

 最後に:

 去る3月19日、私は2週間の秘境添乗を終えて、インドより帰国しました。東日本大震災発生直後より、現地インドの方々から、「日本と日本人のために祈っています!」との激励の言葉を頂きました。宿泊したホテルのレストランでは、ウェイターの方から、「世界は一人の人間のようなものです。どの場所が傷ついても、私たちは痛いのです。被災地の方々の無事と、犠牲者の方々のご冥福をお祈りしています」と、そっと告げられたのでした。また、秘境添乗などで知り合った世界中の友人たちからも、同様のメールやお電話を頂きました。帰国した今、世界中の方々が暖かく見守って下さっていることを、日本の皆様に是非、知って頂きたいと思いました。

 さて、一年間、本連載をご愛読くださり、誠にありがとうございました。本連載は、国内外の秘境の旅でご一緒してくださったお客様の方々、世界各地の旅先でお世話になった方々、旅行スタッフの方々、連載の担当をしてくださったアサヒ・コムの方々、ご愛読くださった読者の皆様方、そして、足許で土台となってくれた家族のお陰で、私自身、多くのことを学びながら、一年間執筆し続けることができました。ここに篤く御礼申し上げます。皆様、本当に、どうもありがとうございました!

プロフィール

金子貴一(かねこ・たかかず)

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 秘境添乗員、フリーライター。1962年生まれ。元不登校児。高校時代、米国アイダホ州で一年間ホームステイ。大学時代は、エジプトの首都カイロに7年間在住し、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒業。留学を通して、「異文化間交流」の大切さを実感。在学中より、観光ガイド、ジャーナリストとして活動を開始。仕事等で訪れた世界の国・地域は100近く。著書に、「秘境添乗員」(文藝春秋)「報道できなかった自衛隊イラク従軍記」(学習研究社)
公式ブログ http://sea.ap.teacup.com/hachidaiga/

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