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桶狭間(下) 正面攻撃説 近年は主流

2009年6月23日11時23分

写真:信長が出撃した中島砦の跡。記念碑には「中島城址」とある=名古屋市緑区拡大信長が出撃した中島砦の跡。記念碑には「中島城址」とある=名古屋市緑区

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 桶狭間の謎を続ける。

 今川義元の軍勢は4万5千とも2万5千とも、織田信長の軍勢は3千とも2千ともいわれる。兵力差が段違いだったことは間違いなさそうだ。

 西に向かう義元は沓掛城を出て、桶狭間山で休憩。迎え撃つ信長は清洲を出て、熱田、善照寺砦(とりで)をへて中島砦に入ったとされる。

 従来は迂回(うかい)路を行き、義元の本陣を奇襲したというのが通説だったが、近年は正面攻撃説が主流になってきている。これは信長の家臣だった太田牛一が記した「信長公記」の「中嶋(砦)より又御人数出だされ候(将兵を出撃させた)」などの記述をもとにしたものだ。「最前線の中島砦からの出撃となると正面攻撃しかない」と、歴史研究家で国学院大学兼任講師の藤本正行氏は30年ほど前から正面攻撃説を唱えてきた。

 では、信長の勝因は何だったのか?

 藤本さんは「信長を先頭に、温存していた織田軍主力が今川軍の前衛部隊を撃破、その混乱が後方の本陣にも波及し、総崩れになった。義元の討ち取りは偶然と幸運の産物だが、人間のやる戦争とはそういうもの」と語る。

 「乱取り状態急襲説」を発表したのが立正大学の黒田日出男教授だ。今川軍が緒戦の勝利に油断して、当時の合戦につきものだった乱取り(略奪行為)に散ったところを急襲したというのだ。武田家の軍学書「甲陽軍鑑」を史料として再評価した上で唱えた。

 「信長公記」の「弓・槍(やり)・鉄砲・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず(算木を乱したように散乱した)」というくだりに注目するのは郷土史家の梶野渡さん。「合戦直前の雨は、大きなクスノキが倒されるほど激しかったとある。雷もひどかったはず。今川方は雷を避けようと、槍や鉄砲などを手放していた可能性がある。そこを信長が襲ったのではないか」とみる。

 一方、『新説 桶狭間合戦』(学研新書)を著した作家の橋場日月氏は、信長軍に別動隊がいたと推測する。「信長公記」に正面攻撃ルートからはずれた「沓掛」の記述があることなどから、別動隊が迂回路を通って後方から攻撃、「その混乱に乗じた信長本隊の『正面攻撃』によって勝敗は決した」とする。

 中島砦の碑は名鉄鳴海駅の近く、川に挟まれた場所に建つ。ここから義元の戦死地まで、豊明でも緑区でも直線で3キロほど。小1時間もあれば攻め込める。激しい風雨は、煙幕の役目を果たしたかもしれない。信長を先頭にした士気盛んな軍勢が至近距離から電撃戦を仕掛けたら、正攻法でも成功の可能性は高いと思われた。(斉藤勝寿)

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