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墨俣一夜城 築城史料 偽作か事実か

2009年6月25日11時21分

写真:「墨俣一夜城」。手前を流れるのは犀川=大垣市墨俣町墨俣、西田写す拡大「墨俣一夜城」。手前を流れるのは犀川=大垣市墨俣町墨俣、西田写す

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 桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は美濃攻略に乗り出す。美濃を支配する斎藤龍興の拠点、稲葉山城(後の岐阜城)を落とすため、交通の要衝・墨俣に出城を築くことを重臣に命ずる。新参者の木下藤吉郎(後の太閤秀吉)が名乗りを上げ、永禄9(1566)年9月、即興の城を建てることに成功した――。

 「墨俣一夜城」の話は太閤の出世物語に欠かせない。岐阜県大垣市墨俣町には、1991年につくられた墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)がある。大垣城などを参考にした天守閣で、24金を27キロも使った鯱(しゃち)が乗る。さすがの秀吉も、これを一夜で建てるのは無理だろう。

 「実際の一夜城はとりでのようなものだったでしょう。天守閣は一夜城を後世に伝えるための資料館なのです」と杉原重明館長は話す。

 信長関係の史料として信頼性の高い「信長公記」に、一夜城の記述はない。資料館に展示された墨俣一夜城の説明は、愛知県江南市の旧家に伝わる前野家文書に基づく。それによれば墨俣に侵攻した秀吉の総兵力は2140人。信長から借り受けた兵は鉄砲隊の75人。1万数千本の材木を木曽川へ流し、安全な場所で築城用に加工して現場で組み立てた。今で言うならプレハブ工法で馬防さくを作り、敵の攻撃を防ぎながら3日間で城を造った。

 前野家文書の一部は、87年に書き下し文で『武功夜話』(新人物往来社)として出版された。詳細で生き生きとした記述が遠藤周作、堺屋太一といった小説家の着想源となったが、17世紀前半に記されたという成立年代や、史料としての価値をめぐって論争が絶えない。墨俣一夜城は主な論点の一つだ。

 藤本正行氏と鈴木眞哉氏の共著『偽書「武功夜話」の研究』(洋泉社)は、墨俣での築城に参加したという前野小右衛門への蜂須賀小六の書状を「後世の人間が創作した完全な偽文書」と断じる。戦国文書に見かけない語句が目立つことなどが理由だ。城絵図にも軍事的な欠陥や当時の常識を無視した点が多く、「偽作としかいいようがない」。さらに、他の史料も参照して「一夜城の存在そのものを疑わざるをえない」と記す。

 国文学者で元愛知工業大教授の松浦武さんは「武功夜話研究会」をつくり、書き下し文ではなく正確に翻刻する作業を続けてきた。「翻刻を元にした史料としての価値判断はこれからだ」という。その上で「文学作品として読めば事実かどうかは気にならない」と話す。「墨俣のくだりは、費用や材料まで細かく記されている。頭でつくった話だとしても、優れた軍記物語であることは間違いない」(西田健作)

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