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三方ケ原 家康、最大の敗戦を教訓に

2009年6月30日11時25分

写真:旧道の「祝田の坂」を案内する小楠和正さん=浜松市、斉藤写す拡大旧道の「祝田の坂」を案内する小楠和正さん=浜松市、斉藤写す

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 徳川幕府260年の礎をつくった徳川家康。天下をとった家康最大の敗戦が、三方ケ原の合戦(浜松市)だ。

 1572(元亀3)年10月、武田信玄率いる2万5千の軍勢は甲府を出陣。信州を経て遠江(静岡県)に入り、12月22日、家康のいる浜松城の北、三方原へ。旗本の大久保彦左衛門が著した『三河物語』によると、兵力が少ないゆえに戦いをいさめる家臣たちに、家康は「自分の国をふみ破って通るのに多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか」と戦う決意を述べた(教育社版、小林賢章訳)。

 三方原は東西約10キロ、南北約15キロの広大な台地だ。その中のどこで戦闘が始まったかは明らかではない。旧陸軍参謀本部の『三方原の役』の戦図には「小豆餅」の北方に武田軍が、南方に徳川軍が布陣している。だが、歴史学者の故・高柳光寿氏が『三方原の戦』で書いた「祝田の坂」が、今では通説だ。

 「祝田」という地名は、戦いに触れた史料のいくつかに見られ、浜松城からの距離も「家康、浜松より三里に及て打出させ給ひて」(三河物語)という記述に合致している。徳川軍は坂を下っていく武田軍を後方から攻めようと、V字形の「鶴翼(かくよく)の陣」で攻めたが、武田軍がΛのような「魚鱗(ぎょりん)の陣」で待ちかまえていたという。

 「祝田の坂」は現在も旧道に残っている。坂の道幅は5メートルから狭いところでは約1メートル。「武田の2万5千もの大軍がこの狭い坂の途中で反転したとしたら、かなり難しいでしょう」と郷土史家の小楠和正さん(72)。

 小楠さんが主張するのが「都田丸山南説」だ。1713年に地元の神主が書いた「曳馬拾遺」には「信玄の本陣は都田の丸山にすへられ」という記述がある。丸山は三方原台地北端部に位置するなだらかな山で、現在は都田丸山緑地となっており、三方原が一望できる。小楠さんは「計3万以上の軍勢が戦うには最適な場所」と話す。

 夕方に始まった戦闘は武田軍が圧倒、家康も討ち死にを覚悟したとされる。家臣の夏目吉信が身代わりとなって敵をひきつけるなどしたおかげで、家康は浜松城に逃げ帰ることができたという。

 大敗北とされるが、酒井忠次や本多忠勝、石川数正ら有力な武将はほとんど死んでいない。小楠さんは「それほどの大敗北ではなかったのでは。天下人があえて敗北を強調するのは、教訓をこめたかったからではないか」。家康がこの敗戦後、慢心を戒めるために描かせたという肖像が、名古屋市の徳川美術館に残っている。(斉藤勝寿)

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