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野田城 語り継がれる信玄銃撃説

2009年7月2日12時2分

写真:信玄を撃ったと伝えられる信玄砲をもつ山内祥二館長拡大信玄を撃ったと伝えられる信玄砲をもつ山内祥二館長

写真:野田城に残された当時の井戸跡を説明する渡邉靖さん=いずれも新城市、斉藤写す拡大野田城に残された当時の井戸跡を説明する渡邉靖さん=いずれも新城市、斉藤写す

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 先週取り上げた「三方ケ原の戦い」(浜松市)で、徳川家康を撃破した武田信玄はさらに西進、1573(元亀4)年1月に三河・野田城(愛知県新城市)を囲む。

 守る城主は徳川方の菅沼定盈(さだみつ)。籠城(ろうじょう)は約1カ月に及んだが、援軍もなくついに降伏、城を明け渡した。ところが、武田軍は転進し、甲斐に戻っていった。

 なぜ、武田軍は帰国したのか? 信玄の病が重くなったからというのが通説だが、野田城からの銃撃で信玄が深手を負ったという説もある。

 出典の一つは1677(延宝5)年に成立した菅沼家の家歴「菅沼家譜」だ。それによると、伊勢山田の住人で笛の名人村松芳休も籠城し、毎夜笛を吹き、武田方も聞きほれていた。2月9日、紙がついた竹が堀端に立ったのを菅沼方の鳥居三左衛門がいぶかり、この竹を目あてに鉄砲を仕掛けておいた。その夜、鉄砲を放つと竹のあたりで「大将撃たる」と叫ぶ声がしたという。このエピソードはカンヌ映画祭で最高賞を受賞した黒澤明監督の「影武者」にも採用されている。

 野田城跡はJR飯田線の野田城駅から歩いて約15分。小さな丘になっており、空堀が当時の名残をとどめる。深さ4.6メートルほどの竪穴は当時の井戸跡だ。武田軍は甲州の金掘衆を呼んで、坑道を掘って井戸水を抜く戦術をとった。これが落城のひきがねとなったとされる。

 城と向かい合うがけの上には信玄が撃たれたという「笛聞場」がある。さらに市内にある設楽原(したらがはら)歴史資料館には、信玄を撃ったとされる「信玄砲」が展示されている。菅沼氏の菩提(ぼだい)寺、宗堅寺に伝わるもので、木部が失われ銃身のみ。長さ105センチ、重さ11キロで口径20ミリ。山内祥二館長は「日本に残る火縄銃のうちで最も古いものの一つとされていますが、野田城の攻防当時のものかどうかはわかりません」と話す。

 甲斐に戻る途中で没した信玄の死因は肺結核や胃がんなどの病死が有力で、銃創死因説は異説とされている。菅沼家譜の記述についても、後に大名になった菅沼家がいかに信玄を倒したかを後世に誇示するために作った創作とする見方がある。

 各種史料から銃創死因説を調べてきた愛知県豊橋市在住の郷土史家冨田芳治さんは「鉄砲と笛をからめた菅沼家譜はできすぎだと思うが、銃撃説は『松平記』など多くの文書にある。一概に伝説とは言えないのではないか」。

 地元では銃撃説が伝わってきた。野田城近くに住む郷土史家の渡邉靖さん(89)は「先祖代々そう伝えられてきた。私たち郷土の誇りでもあるのです」。(斉藤勝寿)

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