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姉川 「奇襲、戦い小規模」説

2009年7月9日10時47分

写真:遠藤直経が戦死したと伝えられる場所。直経の墓がある=滋賀県長浜市、西田写す拡大遠藤直経が戦死したと伝えられる場所。直経の墓がある=滋賀県長浜市、西田写す

写真:現在の姉川=同市、斉藤勝寿撮影拡大現在の姉川=同市、斉藤勝寿撮影

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 織田信長と徳川家康の連合軍が、浅井長政と朝倉景健(かげたけ)の連合軍と対決した1570(元亀元)年の姉川の合戦。場所は近江(滋賀県)で東海地区ではないが、高名な合戦なのであえてとりあげたい。

 姉川古戦場には現在、長浜市野村町の野村橋のたもとや三田町の激戦地など15カ所に案内板があり、戦いの跡をたどることができる。長浜市民で作る「姉川の合戦再見実行委員会」(事務局・同市観光振興課)が立てた。

 長浜市が通説として紹介する「日本戦史 姉川役」(旧陸軍参謀本部編さん)によると、合戦があったのは6月28日。織田・徳川連合軍は計2万9千人、浅井・朝倉連合軍は計1万8千人。早朝から姉川一帯で激突した。数に勝る信長軍が浅井軍に苦戦する一方、徳川軍は榊原康政の一隊を迂回(うかい)させて側面から朝倉軍を攻撃、最終的には織田・徳川軍が勝利した。徳川軍と、負けたものの浅井軍の強さが目立った戦とされた。

 激戦の名残として血原、血川の地名が現場に残るが、長浜市長浜城歴史博物館の太田浩司学芸員はこの通説を疑問視する。「両軍が何段にも陣を構えた合戦らしい合戦ではなく、浅井軍が奇襲をしかけた小規模な戦いだったのでは」というのだ。

 事実、浅井方の家臣で名だたる戦死者は遠藤直経(なおつね)だけ、朝倉方も著名なのは大太刀を振るった真柄十郎左衛門ぐらい。しかも浅井・朝倉連合軍は、この年の9月から12月にかけて大津市の坂本や比叡山に出陣し、再び信長軍とにらみ合っている。

 遠藤の討ち死に場所と伝わる「遠藤塚」は、信長が本陣を構えたとされる「陣杭の柳」よりさらに300メートルほど織田方に寄った方にある。太田さんは一級史料とされる太田牛一「信長公記」に、信長が護衛の馬廻で戦ったと記されていることに触れ、「遠藤塚が信長本陣より奥にあるのは、奇襲で織田軍が後退したため」と話す。

 だが、遠藤は討ち取られ、奇襲は失敗に終わる。浅井・朝倉連合軍は浅井の本拠、小谷城などに退却し、全面衝突することはなかった。徳川軍も朝倉軍を追撃し、一部を討ち取っただけ――というのが太田さんの見方だ。

 ことさらに徳川、浅井を持ち上げてきたのは、後に天下を取った徳川側による「家康中心史観」と太田さんはいう。「姉川合戦がこれほど有名なのは、家康が出陣していて、江戸時代にもてはやされたからでしょう。それに浅井長政は3代将軍家光の祖父にあたりますから」と太田さん。家康中心史観をもとにした通説の見直しが、徐々に進められている。(西田健作)

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