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小豆坂 今川・織田、合戦回数は謎

2009年7月23日10時45分

写真:住宅街の一角に残る「小豆坂古戦場」の石碑=愛知県岡崎市拡大住宅街の一角に残る「小豆坂古戦場」の石碑=愛知県岡崎市

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 徳川家康は幼いころ、今川家の人質となる苦難の日々を送ったが、そのきっかけとなったのが三河の小豆坂(愛知県岡崎市)の合戦だ。

 三河は当時、東から駿河(静岡県)の今川義元、西から尾張(愛知県)の織田信長の父信秀の勢力が伸長、勢力争いの場所となっていた。家康の父松平広忠は今川方にくみし、両軍は東海道の迂回(うかい)路が走る小豆坂で激突した。

 徳川家の旗本大久保彦左衛門が著した「三河物語」によると、東西から山道を進んでいた両軍は小豆坂で偶発的に遭遇、合戦になった。織田軍は2度追い返され、死傷者も多かった。この合戦は義元が家臣らの手柄をほめた感状などから天文17年(1548)年3月とみるのが定説だ。

 一方で、その6年前の天文11年にも合戦があったとの説がある。太田牛一の「信長公記」に由来する。今川軍が8月上旬、生田原から「あづき坂へ人数を出し候」とあり、安城城から矢作へ出撃した織田軍が「一戦に取結び相戦ふ」と記す。こちらは劣勢だった織田軍が槍(やり)をふるって活躍した「七本槍」と称される7人の奮戦で盛り返し辛勝したと伝わる。これ以外に、小豆坂の記述は出てこない。

 天文17年の1回説を支持するのは、「三河松平一族」(新人物往来社)の著作をもつ国学院大兼任講師の平野明夫さんだ。平野さんは「『信長公記』には、年を示す言葉がないうえ、天文11年は今川氏も小田原北条氏と対立中。西三河へ攻め込む状況ではなかった」と推測する。

 2回説の立場をとるのが「新編岡崎市史」だ。編集委員長を務めた愛知教育大名誉教授の新行紀一さんは「天文17年の戦いが、天文11年の戦いに誤られる可能性は薄い。確かに11年の戦いは、感状など史料が見つかっていないが、2度あったと考えるのが素直な解釈」と話す。

 岡崎地方史研究会幹事の奥田敏春さんは、「中津藩史」所載の今川義元判物(はんもつ)の中に、天文16年8月25日の日付で「当国東西鉾楯(ほこたて)」とあることから、この時期は小豆坂周辺で散発的な戦闘が繰り広げられたと推理する。「この地域は当時、最前線の紛争地帯。義元は、天文16年には小豆坂近くに作った拠点の城を出撃して手柄を立てた配下に感状も出している。1回なのか2回なのかもさることながら、天文17年の戦そのものについても検証が必要なのではないか。小豆坂は謎の多い戦いです」と首をひねる。

 天文17年の合戦後、今川氏は三河から織田勢を駆逐、家康の松平家を含めて三河を支配した。家康の今川家臣従は、それから12年後、桶狭間で義元が討たれるまで続く。(林辰浩)

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