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飛騨・八日町 鉄砲 勝敗分けた一因か

2009年7月28日10時37分

写真:「江馬家臣十三士之碑」をみる酒井松彦さん(左)と福井重治さん=岐阜県高山市国府町、斉藤写す拡大「江馬家臣十三士之碑」をみる酒井松彦さん(左)と福井重治さん=岐阜県高山市国府町、斉藤写す

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 「飛騨の関ケ原」と呼ばれる合戦がある。

 現在は岐阜県高山市に合併された旧国府(こくふ)町八日町、荒城(あらき)川を挟んだ谷あいで、高原諏訪城(飛騨市神岡町)の江馬(えま)輝盛と、松倉城(高山市)の三木自綱(よりつな)という飛騨の2大勢力が激突した。天正10(1582)年10月のことだ。

 同時代の史料としては寿楽寺(飛騨市古川町)に伝わる大般若経の奥書に「輝盛討ち死に、その外一家の長衆数多(あまた)戦亡す」とあるほか、「飛騨群鑑」「飛州軍乱記」「飛騨国治乱記」など後世の軍記ものにも記述がみえる。

 それらを総合すると戦いの概要はこうだ。江馬輝盛は軍勢を率いて大坂峠を越え、八日町に。三木自綱は小島、広瀬氏など有力豪族を仲間に引き入れて迎え撃った。緒戦は江馬軍が優勢で、輝盛自ら大長刀を振るって敵陣深くまで攻め入った。が、伏兵20騎が留守となった輝盛本陣を急襲。輝盛は引き返すところを銃撃されて重傷を負い、17歳の牛丸又太郎に首を授けた。大将の死によって江馬軍は総崩れ、13人の家臣も輝盛に殉じて死を選んだ。

 国府町史の中近世史部分を担当している県立高山工業高校の福井重治教諭は「飛州軍乱記に三木軍1千、江馬軍300とあるように、もともと軍勢の数の違いが大きいのでは。孤軍の江馬軍に対して、三木軍は外交交渉によって他の豪族の協力を得られたようだ。加えて合戦地は主に三木の領地であり、地の利があったことも勝因ではないでしょうか」と推測する。

 さらに三木軍の鉄砲使用に注目し、騎馬を主体とした旧戦法から脱せなかった江馬軍に対して、かねてから織田信長と結んでいた三木氏は近代兵器を効果的に使うことができたという見方もある。

 戦場になったと思われる一角に、江馬輝盛の墓が立つ。「旭光院殿天岳良英大居士」との戒名が彫られた立派なものだ。そこから500メートルほど上ったところには輝盛に殉じた13人の家臣をまつった石碑もある。大坂峠は十三墓峠ともいわれるようになった。

 なぜ敗者をここまであつく弔ってきたのか? 地元に住む国府町元教育長の酒井松彦さんは「輝盛の勇猛ぶり、十三士の忠義ぶりを言い伝えてきた地元の人たちが後世に残すためでしょう」と話す。

 飛騨の戦国時代を代表する八日町合戦は地元でも知られていない。酒井さんは「高山を本拠にした戦国武将・三木氏の重要な合戦でもあるので、市をあげて検証していくことが必要だ」と強調する。

 合戦の後、飛騨をほぼ統一した三木氏だが、羽柴秀吉に飛騨平定を命じられた金森長近に滅ぼされてしまう。わずか3年後のことだ。(斉藤勝寿)

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