現在位置:
  1. asahi.com
  2. ライフ
  3. トラベル
  4. 東海の古戦場をゆく
  5. 記事

飛騨・帰雲城 大地震で陥落、今も埋没

2009年7月30日11時6分

写真:帰雲城を説明する高島外成さん。後方の帰雲山には山崩れのあとがみえる=岐阜県白川村保木脇、斉藤写す拡大帰雲城を説明する高島外成さん。後方の帰雲山には山崩れのあとがみえる=岐阜県白川村保木脇、斉藤写す

図:  拡大  

 先週に続き飛騨をゆく。城が陥落する原因は合戦だけではない。白川郷(岐阜県白川村)を支配した内ケ嶋氏の居城・帰雲(かえりくも)城は、大地震によって滅んだとされる。

 信州からきた内ケ嶋氏は1460年ごろに帰雲城を築いたという。1585(天正13)年8月、4代当主・氏理の時に、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵攻。越中(富山県)に出陣していた氏理は急きょ戻って降伏し、本領を安堵(あんど)された。大地震が起こったのは皮肉にも3カ月後の11月29日。120年続いた内ケ嶋氏は城下町とともにこつぜんと姿を消したのだ。

 城や町の名残は見受けられない。世界遺産の荻町合掌造り集落から庄川沿いに8キロほど南下した傍らに、地元の人が建てた石碑があるだけだ。後方に見える帰雲山の山崩れの跡は、400年以上たっても生々しい傷跡を見せる。土砂は山津波となって一気に押し寄せたと考えられている。

 この悲劇は、大阪府貝塚市に一時移っていた本願寺の日記「貝塚御座所日記」にこう記されている。「飛州ノ帰雲ト云(いう)在所ハ(略)地震ニ山ヲユリクヅシ(略)内嶋一類地下人ニイタルマデ、不残(のこらず)死タル也」(『真宗史料集成』同朋舎メディアプラン)

 帰雲城は1970年代まで世の中に知られておらず、地元の旅館主が熱心に調べていたぐらいだった。内ケ嶋氏の領内に金山があったことから大量の金も一緒に埋まっているとの推測が流れ、70年代以降は新聞、テレビなどで取り上げられて話題になった。

 86年に「白川郷埋没帰雲城調査会」(現在の名称)が発足、現地調査をして城の発見に努めている。今年5月も山間部に入り、土塁などの遺構がないか調べるはずだったが大雨で中止に。事務局長の野田秀佳さんは「これまで山間部の調査をしてきたが、何も見つけられなかった。今後は発掘調査に転換するほかないと思う。予算がなく、大がかりなものは無理ですが」と話す。

 調査会は会員36人。野田さんはたまたま参加した白川村の文化フォーラムで城のことを知って魅せられた。「目に見えないものだからこそ夢とロマンがわきおこるのです」

 城があったと思われる地区から、庄川を約4キロ上った平瀬地区にある常徳寺の高島外成住職も会員の一人だ。常徳寺は室町時代から続く古寺で、合掌造りの本堂と庫裏(くり)があったが、45年に全焼した。「逃げるのに精いっぱいで何も持ち出せなかった。帰雲城に関する古文書もあったはずで残念でなりません。生き埋めになった人のために、陶器や刀の破片を一つでも見つけることが地元としての使命だと思います」(斉藤勝寿)

検索フォーム
キーワード:


朝日新聞購読のご案内