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長篠・設楽原:上 忠義の兵、影に地元武士

2009年8月11日11時52分

写真:「磔死之趾」の石碑を説明する夏目利美さん=愛知県新城市、斉藤写す拡大「磔死之趾」の石碑を説明する夏目利美さん=愛知県新城市、斉藤写す

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 日本史上に名高い「長篠の戦い」を2回に分けて紹介する。この合戦を総括すれば、長篠城(愛知県新城市)をめぐる攻防を端緒に、武田勝頼軍1万5千と徳川家康・織田信長連合軍3万8千が、そこから西に約4キロ離れた設楽原(したらがはら)で会戦を行った。最近では「長篠・設楽原の戦い」と称されるようになっている。

 まずは決戦の前段となる長篠城攻防のエピソードから。徳川方の奥平貞昌が守る長篠城を武田方が囲んだのは天正3(1575)年5月。城は武田軍の猛攻で落城寸前になった。そこで岡崎の家康のもとへ援軍を求める使者を出すことになった。

 使者にたったのが、水泳の得意な雑兵、鳥居強右衛門(すねえもん)だった。鳥居は岩壁を下り、流れの激しい寒狭(かんさ)川(現在の豊川)を泳ぎ、城から約4キロ離れた川路村広瀬(現在の新城市川路)に上陸、家康のもとに走った。そこで連合軍が長篠へ進撃することを知り、吉報を城に伝えようと戻ったところを武田方に捕まった。「城に向かって『援軍はこない』と言えば命を助け、恩賞も望み通り」と説得されたものの、口から出た言葉は「援軍は必ずまいるぞ」。鳥居は磔(はりつけ)となった。

 磔になった場所とされる新城市有海地区では磔死(たくし)跡の石碑が建ち、新昌寺には立派な墓がある。地元の人たちは「鳥居権現」として今でも親しみ、敬っている。

 鳥居とともに、鈴木金七郎という地元の武士も城を脱出したという説がある。根拠は地侍の阿部四郎兵衛が書いた「長篠日記」。城主の言葉として「(鳥居)一人では心もとないから、水練達者で、物慣れた鈴木金七と二人で今夜城を出て」とある。同市内の禅源寺の古文書に同様の記録があるほか、上陸地点の川路村にも伝えられてきた。

 新城市郷土研究会の夏目利美会長は「鳥居は離れた市田村(現在の豊川市)の生まれだが、鈴木は設楽郷の出身でしかも身分は士分。土地勘も人脈もある鈴木なくして脱出は無理だったのではなかろうか」と推測する。

 鈴木は鳥居と違って長篠城に戻らず、後に水戸藩に仕えたとされる。鈴木については「寛永諸家系図伝」の奥平家系図や江戸時代の旗本大久保彦左衛門の「三河物語」には出てこない。神様となった鳥居に比べて、歴史上全く無名な存在だ。

 夏目会長は「儒教的武士道が重んじられる江戸時代になり、強右衛門一人が脱出し、忠義に満ちた最期を遂げたとした方が幕府にとっても奥平家にとっても都合が良かったのでしょう」と強調する。

 鳥居磔死5日後の5月21日、連合軍と武田軍は設楽原で戦いの火ぶたを切った。(斉藤勝寿)

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