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長篠・設楽原:下 揺らぐ「三段撃ち」説

2009年8月13日10時42分

写真:分業での連続撃ちを行う林利一さん=愛知県新城市
拡大分業での連続撃ちを行う林利一さん=愛知県新城市

 徳川家康・織田信長の連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千が激突した天正3(1575)年5月21日の「長篠・設楽原の戦い」は、連合軍の圧倒的な勝利で終わる。武田方は山県昌景、馬場信春ら名だたる武将を失った。

 連合軍の勝因についてはこれまで、武田騎馬隊の進撃を防いだ馬防柵(さく)と、鉄砲3千丁の三段撃ち(千丁ずつ交代の連射)、勝頼の無謀な突撃命令などがあげられてきた。

 小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代に書いた「信長記」をもとにした三段撃ちは通説のようにされてきたが、近年は疑問を呈する声が多い。太田牛一の「信長公記」に記述はないし、犬山城白帝文庫や徳川美術館など所蔵の「長篠合戦図屏風(びょうぶ)」にも三段撃ちの様子は描かれていない。

 なぜ連合軍は勝ったのか? 兵力で劣る武田軍が無謀な正面攻撃を行った理由は?

 作家の新田次郎氏は小説「武田勝頼」で、織田方の佐久間信盛が裏切るようにみせかけて武田軍を誘い込んだ「信長陰謀説」で物語を展開したが、歴史研究家の藤本正行氏は信長が決戦前夜に別動隊を編成したことに注目する。

 別動隊は家康の重臣酒井忠次が率いたもので、信長直属の鉄砲隊500など合計4千の大部隊。夜間に山中を迂回(うかい)し、翌朝には長篠城を包囲していた鳶(とび)ケ巣山砦(とりで)の武田軍に奇襲をかけ、守将の武田信実(勝頼の叔父)を討ち取り、さらに長篠城を解放した。

 「これで勝頼は退路を断たれ、正面突破せざるをえなくなった。そうなると、堅固な陣地をもち、人数と鉄砲など物量でまさる連合軍に勝てるわけがない。鉄砲も効果的に使われたと思うが、何よりも決戦せざるをえない状況に追い込んだことが大きい」。藤本さんはこう解説する。

 火縄銃に詳しい「愛知県古銃研究会」の林利一会長らでつくる「長篠・設楽原鉄砲隊」は、設楽原古戦場で開催される「設楽原決戦場まつり」で三段撃ちなど連射の実証を行っている。

 火縄銃は複雑な操作が必要だが習熟すればスムーズに撃つことができるという。ただし、林さんは「2キロに及ぶ長い戦線で一斉の号令をかけられるのか? 弾丸や火薬がそれほど用意できるのか? 一部の戦場ではありえたかもしれないが、全体の一斉射撃は考えられない」と話す。

 今年は初めて分業連射の実験を行った。一組4人で射撃や火薬こめなどを分業し、連射するのだ。3丁の銃で計6発撃ったが、順調に運べた。「有能な射撃手に撃たせ続ける方が合理的。信長のことだから、この方法も試みられていたのでは」。確かに三段撃ちよりは効果的かもしれない。(斉藤勝寿)

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