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岩村城 結婚受け入れた女城主

2009年8月18日10時58分

写真:岩村城本丸跡に残る「六段壁」と呼ばれる石垣。堅固さがしのばれる遺構の一つだ=岐阜県恵那市、林写す拡大岩村城本丸跡に残る「六段壁」と呼ばれる石垣。堅固さがしのばれる遺構の一つだ=岐阜県恵那市、林写す

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 美濃の岩村城(岐阜県恵那市)は世にも珍しい「押しかけ婿と女城主」の城だ。

 三河(愛知県)、信濃(長野県)との境にある城は東濃の要衝。16世紀初めには遠山氏の居城だったとされ、標高717メートルの城山の頂にある。本丸や曲輪(くるわ)などには立派な石垣が残るが、多くは江戸時代以降、整備されたものだ。

 元亀3(1572)年、城主の遠山景任(かげとう)が病死。信長の叔母とされる夫人が「当主」となった。信長は当主不在の城に、五男御坊丸(後の勝長)を養子として送り込み、武田方だった城の乗っ取りに成功。恵那市教委文化課の三宅唯美さん(49)は「景任夫人が織田、武田の二派に分かれた家中を織田派にまとめるため、重要な役割を果たしたのでは」と推測する。

 それもつかの間、同年秋、上洛をめざし行動を開始した武田信玄の別動隊、秋山虎繁によって包囲される。江戸中期の地誌「巌邑府誌(がんゆうふし)」などによれば、秋山は密使を送り、自分が夫人と結婚し、そのうえで御坊丸に家督を譲るとの条件で無血入城した。兵の命を救うためか、家臣団の圧力に屈したのか。なぜ、2人が結婚という形式をとったのかは定かでない。

 が、御坊丸は人質として甲斐(山梨県)へ。信長は激怒し、岩村城奪還の兵をあげたが逆に攻撃を受け退き、東濃での武田優位の情勢が続く。

 潮目が変わるのは長篠・設楽原合戦で武田の力が衰えた後。天正3(1575)年、信長は嫡男信忠を総大将にして大軍を差し向けた。信忠軍は約半年間、城を包囲。援軍が来ないまま、秋山は城兵の助命を条件に城を明け渡す。

 しかし、信長は約束を果たさなかった。その末路を太田牛一の「信長公記」は、秋山ら3人がお礼に参上したところを、信忠が捕らえ岐阜に送り「右三人、長良の河原に張付(はりつけ)に懸け置かれ」とある。残された城兵も「残党悉(ことごと)く焼き殺しになされ候」。

 夫人の最期は謎だ。武田家の軍学書「甲陽軍鑑」は、信長によって成敗されたとあるのみ。地元には、信忠本陣があった「大将陣」で夫妻ともども処刑されたとの伝承も残る。後世「女城主」と呼ばれ、小説にも描かれた夫人だが、「修理夫人」「おつやの方」「お直の方」など名も様々。夫人の出身も、信長の叔母との説が有力だが、甲陽軍鑑は「伯母」、「巌邑府誌」は「信長の女弟なり」と記す。三宅さんは言う。「女城主の伝説は、史料がなく根拠もない。でも戦国を生きた才女は郷土の誇りです」

 同地区では、商店などの軒先に「女主人」の名を入れたのれんを掲げたり、「女城主」と名付けた日本酒を売り出したりして、地域おこしにも活用している。(林辰浩)

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