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安土城 「権力の象徴」謎の最期

2009年8月25日11時44分

写真:安土城跡の発掘状況などを説明する滋賀県教委文化財保護課の松下浩さん拡大安土城跡の発掘状況などを説明する滋賀県教委文化財保護課の松下浩さん

写真:安土城天主台の礎石=いずれも滋賀県安土町、林写す 拡大安土城天主台の礎石=いずれも滋賀県安土町、林写す

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 那古野(名古屋市)、清須(愛知県清須市)、岐阜(岐阜市)……。織田信長は、勢力拡大とともに居城をかえた。最後にたどり着いた安土城(滋賀県安土町)は、信長の権力の象徴だった。

 安土城は天正4(1576)年、重臣丹羽長秀に建造を命令。安土山(標高199メートル)に3年かけて完成させた。

 中心にそびえた巨大天主は威容を誇った。「信長公記」に記される構造は地下1階、地上6階建て。5階は八角形で外柱が朱塗り、最上階は「御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり」(桑田忠親校注)とある。

 城の構造は型破りだ。89年から昨年度までの発掘調査で、内裏と似た構造の4カ所の門を城正面で確認。大手道は屈曲せず山腹までまっすぐ延びていた。本丸跡からは御殿跡が出土。天皇を迎えるために造られた「御幸(みゆき)の間」とされている。信長が安土城に望んだのは防御力より権威の象徴だったのかもしれない。

 信長はなぜ安土の地を選んだのか。滋賀県教委文化財保護課の松下浩さんは「琵琶湖の水運を利用すれば、京都や北陸への移動が短時間で可能。人と物の流れを掌握できる場所だった」と分析する。

 安土城の最期は、主人に似てはかない。天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日余り後、天主や本丸は炎上した。発掘調査でも、熱で割れた礎石や焼土などが見つかっている。しかし、これは明智光秀が安土城を攻めて燃やしたのではない。光秀は無血開城させている。

 では、だれが火を放ったのか。(1)光秀退去後、城を守っていた女婿の明智秀満説。「太閤記」(小瀬甫庵著)に「左馬助(秀満)は安土山に有て(略)十四日未明に、殿守に火をかけ」とある。(2)信長の次男信雄説。宣教師ルイス・フロイスの「日本史」は、「なんらの理由もなく」天主や城下に火を付けたと記す(松田毅一・川崎桃太訳)。(3)略奪目当ての農民らが放った火が城下から燃え移った説。これは、京都の神官・吉田兼見の「兼見卿記」が根拠だ。

 松下さんは「城を退去する際、火を放つのが当時の作法。だとすれば、秀満説は理解できる。ただ史料価値に乏しい。信雄は信長死後、領国伊勢から安土付近まで来たが引き返しており、火を放つ理由はない。城下の火が燃え移った説も、城のふもとからは焼けた痕跡がない」と話す。

 安土城は炎上から3年後、豊臣秀次が八幡城(滋賀県近江八幡市)を築城するに伴い廃城となった。これまでに終えた調査の面積はまだ全体の2割。信長が安土にどんな城を建てたのか? ベールに包まれた全体像の解明は、今後も続く。(林辰浩)

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