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賤ケ岳 史上まれな築城・対峙戦

2009年9月7日10時28分

写真:大岩山にある中川清秀の墓=滋賀県 余呉町、斉藤写す拡大大岩山にある中川清秀の墓=滋賀県 余呉町、斉藤写す

写真:賤ケ岳から余呉湖を望む=斉藤写す拡大賤ケ岳から余呉湖を望む=斉藤写す

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 織田家の家督相続などを定めた清須会議は決裂し、羽柴秀吉と柴田勝家は武力で対決することになった。秀吉は尾張・中村の、勝家は同じく上社(かみやしろ)の生まれ。現在の名古屋市出身の2人が覇を争ったのだ。

 天正11(1583)年3月、勝家は越前・北の庄(福井市)を出発し、近江(滋賀県)に入った。秀吉も木之本に出陣したが、両者とも多くの砦(とりで)をつくって陣地を固め、手詰まり状態に陥った。にらみ合いは1カ月以上続いた。

 「近江の城」を著した中井均・同志社大非常勤講師は、賤ケ岳(しずがたけ)合戦を日本史上まれな「築城・対峙(たいじ)戦」と位置づける。余呉湖の北を境に、双方の多くの砦が向き合った。

 現地には砦跡がたくさん残っている。中井さんらの調査によれば、秀吉方の砦が土塁や堀などを巡らした複雑な構造であるのに対し、勝家方のそれは本陣だった玄蕃尾(げんばお)城以外は単純で、小規模な防御施設であった。

 中井さんは「勝家方の砦は一気に攻撃するベースキャンプ的なものであり、秀吉方はがっちりと防御を固め、敵を南下させないようにするのが目的だった」と説明する。

 やはり動いたのは勝家方だった。4月20日、秀吉の美濃(岐阜県)転戦を知った勝家のおい佐久間盛政が行市山(ぎょういちやま)砦を出て南下し、大岩山砦を攻めて中川清秀を討ち取る。しかし、盛政の動きを知った秀吉は美濃から直ちに戻って反撃。この戦いで活躍したのが福島正則、加藤清正、片桐且元ら「七本槍(やり)」と言われた秀吉の旗本たちだった。

 一方、勝家方は前田利家が戦わずして撤退。不破勝光、金森長近も続いた。これによって陣営は総崩れになり、勝家は越前に退いた。この時、勝家の身代わりとなって敵を防いだのが毛受(めんじゅ)兄弟とされ、現場には立派な墓が残る。

 この合戦の戦場は賤ケ岳のほか、余呉湖周辺や現在の国道365号沿いと多岐にわたるが、賤ケ岳と名付けられている。地元で歴史観光ガイドを務める滋賀県木之本町大音の伊藤源一郎さんは「この山頂からは戦場全体が一望できる。秀吉もここで指揮をとったし、七本槍もここを駆け下りて活躍しましたから」。

 勝家方の敗因として、盛政の軽率な攻撃を挙げる見方が多かったが、伊藤さんは「何といっても前田軍などの離脱が大きかった。北軍(勝家方)は数で劣っていた上に彼らが抜けたとなれば、士気は相当低下したことでしょう」と指摘する。前田の行動は、前々から秀吉との間で密約が結ばれていたとの説もある。

 勝家は敗戦のわずか3日後、北の庄城で妻・お市の方(信長の妹)とともに自害。天下の大勢は秀吉に大きく傾き出す。(斉藤勝寿)

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