現在位置:
  1. asahi.com
  2. ライフ
  3. トラベル
  4. 東海の古戦場をゆく
  5. 記事

小牧・長久手:上 天下人同士、唯一の戦い

2009年9月14日10時51分

写真:勝入塚を説明する中野鉄也さん拡大勝入塚を説明する中野鉄也さん

写真:色金山には、家康が軍議の際、床几(しょうぎ)がわりに使ったとされる巨石がある=いずれも愛知県長久手町、斉藤写す拡大色金山には、家康が軍議の際、床几(しょうぎ)がわりに使ったとされる巨石がある=いずれも愛知県長久手町、斉藤写す

地図:  拡大  

 柴田勝家を滅ぼし、天下人への道を歩み出した羽柴秀吉にとって、目の上のこぶは主君筋にあたる織田信雄であり、織田家の盟友・徳川家康だった。両軍が対決したのが小牧・長久手の戦いだ。

 天正12(1584)年3月、信雄が秀吉に通じた3家老を謀殺。これをきっかけに戦いは始まる。家康は三河を出て、尾張・清須城(愛知県清須市)で信雄勢と合流。当時の秀吉の書状に「家康さへ討果候(うちはたしそうら)ヘハ」とあるように、秀吉は家康を滅ぼす意志をもって尾張に進出した。両軍は北尾張でにらみ合った。

 行き詰まり状態を破ったのは秀吉方の「三河中入り策」だった。4月、おいの秀次を大将に池田勝入斎(恒興)、森長可、堀秀政の別動隊約2万5千が、家康の尾張出陣の留守をついて家康の本拠三河に向かった。この大胆な作戦を家康方はすぐに察知、家康自ら出陣し、別動隊を急襲。秀次軍は総崩れになって敗走、森は銃弾を頭に受けて戦死。池田も討ち取られた。

 現在の愛知県長久手町には池田の戦死地を示す「勝入塚」、「鬼武蔵」と呼ばれた森の「武蔵塚」、家康が指揮したとされる色金山などの国指定史跡が点在する。

 同町郷土史研究会の中野鉄也会長らは「小牧・長久手合戦は秀吉と家康が戦った唯一の戦い。中でも長久手は代表的な激戦だった」と歴史ガイドに力を入れている。

 長久手町は古戦場つながりでベルギーのワーテルロー市と姉妹都市になっている。ワーテルローはナポレオンが連合軍に敗れた地だ。中野さんは「ワーテルロー並みとはいわないものの、2人の天下人が争った場所なのでもっと知名度を上げていきたい」。

 長久手の戦いはこれまで、前哨戦である羽黒(愛知県犬山市)で敗れた池田・森が名誉回復のために献策した隠密作戦とされてきた。だが、秀吉自らの意志による作戦と見るのが、「長久手町史」の合戦部分を担当した首都大学東京の谷口央准教授だ。

 谷口准教授は「別動隊は砦(とりで)を築きながらゆっくりと移動している。九鬼水軍による三河攻撃を示す史料もあり、家康をおびき出したうえで水陸双方から攻める大がかりな作戦だった」と推測する。

 しかし、家康の方が上手だった。「家康は迅速に反撃し、秀吉本軍に捕捉される前に本陣の小牧山(愛知県小牧市)に戻った。それが勝因では」と谷口さん。

 長久手合戦は、神君家康が太閤秀吉を破った戦いとして、徳川の世となった江戸時代には特別視された。しかし、あくまでも局地戦での勝利であって、小牧・長久手の戦いそのものは、まだまだ続く。(斉藤勝寿)

検索フォーム
キーワード:


朝日新聞購読のご案内

ここからおすすめ旅行

ここまでおすすめ旅行