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小牧・長久手:下 信雄か秀吉か、天下分け目

2009年9月21日10時13分

写真:豊臣秀吉の本陣だった楽田城址(じょうし)を説明する入谷哲夫さん=愛知県犬山市拡大豊臣秀吉の本陣だった楽田城址(じょうし)を説明する入谷哲夫さん=愛知県犬山市

写真:空から見た小牧山。山頂にあるのは小牧市歴史館=小牧市提供拡大空から見た小牧山。山頂にあるのは小牧市歴史館=小牧市提供

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 羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った「小牧・長久手の戦い」を続ける。

 天正12(1584)年4月、秀吉の「三河中入り策」は失敗に終わったが、大勢にそれほど影響はなかった。連合軍は小牧山(愛知県小牧市)に、秀吉軍はそこから約5キロ離れた楽田(がくでん)城(同犬山市)に本陣を構え、にらみあったままだった。

 小牧山は濃尾平野にぽつんと浮かんだ標高86メートルの小山。織田信長が美濃攻めの拠点にしたように、戦略上の重要地だ。小牧市文化財保護審議会委員の入谷哲夫さんは「小牧山を制する者は天下を制すといわれたぐらい。兵力で劣る連合軍が秀吉に五分で渡り合えたのはここをおさえたから。信長の配下だった秀吉も小牧をよく知っていたので、そう簡単には攻められなかったのでは」と説明する。小牧山には合戦当時の土塁などが多く残されている。

 秀吉が本陣を構えた楽田城は、現在の楽田小学校あたりで、学校に隣接して記念碑が建っている。「最重要拠点を家康に押さえられてしまった以上、秀吉は後方基地の犬山城と前線の小松寺山砦(とりで)などを結ぶ楽田城で指揮せざるをえなかったのだろう」と入谷さんは解説する。

 この戦いを、秀吉の天下統一過程における有力武将掃討戦ではなく、16年後の「関ケ原」のような「天下分け目の戦い」だったと見るのは、三重大学教育学部の藤田達生教授だ。「織田体制を継承した信雄か、独自の政権構想を掲げて天下人を目指す秀吉かを問う戦いだった。尾張の主戦場だけでなく全国規模で局地戦が行われ、直接の関係のない大名もどちらかの陣営に属することを強いられた。こういった点からも、小牧・長久手はそれまでの戦いとは様相を異にしていた」

 たとえば、四国は長宗我部元親対十河存保(そごうまさやす)、北陸は佐々成政対前田利家、関東は北条氏直対佐竹義重というように、信雄方と秀吉方に分かれて戦いを展開していた。

 藤田教授は「江戸時代以降の徳川史観の中で長らく、小牧・長久手の合戦は家康が秀吉に勝ったと定義されてきたので、本来の大将・信雄の地位は軽んじられ、不当に低い評価をされてきた。織田家の家督を継いだ信雄は、家康と連携して織田家臣団を統制し、天下人としての地位を確立しようとした」と話す。

 秀吉は信雄領を攻めることで信雄を心理的に追い詰め、講和を持ちかける。信雄は応じ、11月15日に成立、家康も翌16日に帰国。8カ月余りの戦いは終結した。結局は信雄も家康も秀吉に帰順。尾張・中村(名古屋市中村区)出身の百姓のせがれが天下を取ることになる。(斉藤勝寿)

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