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関ケ原 躍り出た尾張の2武将

2009年10月7日15時18分

写真:加藤清正画像(部分)=名古屋市秀吉清正記念館蔵拡大加藤清正画像(部分)=名古屋市秀吉清正記念館蔵

写真:妙行寺内にある清正公誕生之地の碑=名古屋市中村区拡大妙行寺内にある清正公誕生之地の碑=名古屋市中村区

写真:福島正則公肖像画(部分)=菊泉院蔵拡大福島正則公肖像画(部分)=菊泉院蔵

写真:福島正則の陣跡=岐阜県関ケ原町拡大福島正則の陣跡=岐阜県関ケ原町

 豊臣秀吉の死後、慶長5(1600)年に起きた天下分け目の関ケ原合戦は、三河出身の徳川家康の勝利に終わる。この勝利には、秀吉と深い縁をもちながらも徳川方に属した尾張出身の2人の武将が大きく貢献した。

 1人は福島正則だ。現在の愛知県美和町で生まれ、秀吉とはいとこの間柄とされる。町内には菩提(ぼだい)寺の菊泉院があり、江戸時代に描かれた肖像画や正則の位牌(いはい)、護持仏が伝わっている。住職の山田泰信さんは「位牌などと一緒に愛用のやりも奉納されたと伝わっていますが、今は残されていません」と残念がる。

 もう1人は加藤清正。秀吉と同郷の尾張・中村(名古屋市中村区)の生まれ、秀吉の母方の縁者といわれる。生誕地とされる同区内の妙行寺には、兜(かぶと)や画像、旗や采配などが伝えられている。近くには中村出身の秀吉と清正の資料を集めた「名古屋市秀吉清正記念館」もある。同館の小西恒典学芸員は「秀吉とともに清正の資料も数多くあります。清正が朝鮮で退治したという虎のあご骨も所蔵しています」と話す。

 譜代の家臣がいない秀吉は彼らを旗本として重用。彼らも「賤ケ岳の七本槍(やり)」などとして活躍し、期待に応えた。関ケ原のころには福島は尾張清須(清須市)24万石、加藤は肥後(熊本県)半国20万石の大名に出世していた。

 しかし、関ケ原合戦で2人とも東軍(徳川方)につく。福島は先陣となって西軍主力の宇喜多秀家勢と死闘。領国にいた加藤は、九州で西軍方の城を攻めた。合戦の成果よりも「秀吉子飼いの2人までが徳川に味方した」という周囲への影響が大きかった。

 なぜ、彼らは東軍に味方したのか? 通説では2人は西軍の実質的総大将、石田三成と犬猿の仲。遺恨を晴らすことに夢中になって家康の天下簒奪(さんだつ)に気づかなかったとされてきた。だが、美和町歴史民俗資料館の鎌倉崇志学芸員は「2人ほどの人物なら秀吉の死後だれが天下を取るか分かったはず。わざわざ負ける側について家臣を路頭に迷わせるわけにはいかなかったのでは」と推測する。

 関ケ原の功でともに大大名になる。福島は安芸・備後(広島県)、加藤は肥後1国でそれぞれ約50万石を与えられた。しかし、隆盛は長くは続かなかった。加藤は慶長16(1611)年に病没、息子の代で改易となった。福島は元和5(1619)年、広島城の無断改修をとがめられ、信濃(長野県)に転封され、5年後に亡くなる。

 福島、加藤とも広島、熊本を治めた期間はそう長くはなかったが、地元には大きな足跡を残した。

 福島は広島で検地を実施。城下町や陸路・海路を整備し、日本有数の大都市となる基盤をつくった。

 加藤は熊本で神様として祭られている。熊本城内に加藤神社があり、「生誕450年・没後400年記念事業」のイベントが今年から再来年にかけて行われる。加藤神社の湯田榮弘宮司は「清正公は治水、利水、干拓など領民の生活向上につながる施策を数多くおこなった。虎狩りの豪快なエピソード、その半面の優しい人柄が人々を魅了したのでしょう。清正公は熊本を大いに愛し、領民も清正公を大いに愛したのです」と話す。

     ◇

 戦国時代の東海地区は、多くの古戦場とともに、加藤や福島のような有能な人材も多数輩出、全国に大きな影響を与えた。関ケ原を頂点に東海パワーは全国に広がっていったのだ。(斉藤勝寿)=おわり

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