2008年5月14日
今から4カ月前――お産を間近に控えていた頃、私の心の中は次のような塩梅(あんばい)だった。
痛いのだろうか。どうだろうか。 40%
いよいよ出てきてくれるのね。 50%
いよいよ出ていってしまうのね。 10%
そう。ちょっとさびしかった。
だって、お腹の中に命の宿る、あのなんともいえない感覚が、もうなくなってしまうのだ。ボコボコと痛いぐらいに蹴ってきたり、ぎゅーっと突っ張ったり、お風呂で気持ちよさそうに伸びをしたりする、いとおしい感覚。
そうはいってもXデーとはやってくるもの、やってこなくては困るもので、私の場合は、真夜中の破水から始まった。里帰り中の実家でグースカ寝ていたら、午前3時にパッチリ目が覚めて、いきなり破水したのだ。
身支度をし、入院道具一式を持って、N氏とタクシーに乗りこんだ。振り返ると、母が窓から大きく手を振っていた。父は家の外まで出てきて、小さく手を振った。ハイ、行ってきます。
痛みはまだない。本当は「運転手さん急いでください!」っていう台詞をN氏に言ってもらいたかったのだけど、まったく緊迫していないので必要ナシ。残念。だからか、この期に及んでも、出産はまだまだ先のような、他人の事のような気がした。
病院ではベッドが並ぶ陣痛室に通された。N氏は「じゃあね」と戸惑いの表情で部屋を出ていく。病院の方針で、伴侶であろうと誰であろうと、ここで付き添うことはできないらしい。知らなかった!(調べておけよ)。出産時の立ち会いは望んでいなかったけど、陣痛をやり過ごす間はぜひとも支援してほしかったのに。ああショック(だから調べておけって)。
自分の詰めの甘さにぐったりしていると、看護婦さんが有線放送の番組表を持ってきてくれた。
「今日この部屋を使うのは春口さん1人だから、好きなチャンネルを選んでいいですよ」
ほほう、どれにしようかな。気を取り直して、さっそく番組表を眺めた。
今室内に流れているのは、たぶんマタニティーのチャンネルだろう。耳に優しい音とゆったりした曲調が、胎教にも良さそうだ。
アリバイチャンネル、というのは、話に聞いたことがあるぞ。パチンコ屋のチーンじゃらじゃらとか、駅のホームのアナウンスとか発車のベルとかが、延々とかかっているそうな。面白そうだが、アリバイという概念自体、胎教というか教育によろしくない気がする。
迷いに迷って、懐かしの邦楽(主に80年代)を聴くことにした。
陣痛がいっこうに訪れないので、促進剤を投与することになった。点滴を始めたとたん、あっという間にそれは来た。
痛い。とても痛い。とてもとても痛い。とてもとてもとても痛い。とてもとてもとてもとても……という具合に痛みが増していって、一体どこまで痛くなるのかとキョーフに襲われるわけだが、それでも最初のうちはまだ、痛みと痛みの合間にBGMを楽しむ余裕があった。
おお、少女隊の『Bye−Byeガール』。聴いたわ聴いた、な〜つかしいな〜。たしか少女隊主演の映画の主題歌だったはず。吉川晃司の『ユーガッタ・チャンス』と同時上映だったはず。あいたたた。
お、C−C−B。『Romanticが止まらない』でも『Lucky Chanceをもう一度』でも『スクールガール』でもない、この曲のタイトル何だっけ。あいだだだだだ。
堀江淳の『メモリーグラス』。い゛ー た゛ー い゛ー!
待つわ〜待つわ〜いつま……(もはや声も出ず)
しまいには、陽気に流れる曲の数々が腹立たしくさえ感じられてきた。さんざん心の支えにしてきたというのに、勝手なものである。
かくして、陣痛とたたかうこと9時間半、無事に男の子――小丸(仮名)が産まれたのだった。
現在、小丸は6700グラム。すでに出生時の倍ほどである。そんな小丸を抱っこする私の心情はというと、やっぱりというか何というか、「ぐんぐん大きくなって嬉しい」と「ぐんぐん大きくなってしまってさびしい」が、ないまぜなのだった。
皆さま、お久しぶりです。今週から再開した「ぽれぽれサファリ」、またよろしくお願いします。
(※編集部注:今後は隔週の更新とさせていただきます。あらかじめご了承願います)
1970年横浜生まれ。慶応義塾大学卒業後、損害保険会社に入社。広報の仕事でエッセイを書きながら、「やはり物書きの道へ」と心を決める。旅行と甘いものが好き。01年よりOLを辞め、執筆業に専念。同年、ホラーサスペンス大賞で『 火群の館 』(新潮社刊)が特別賞受賞。著作に『 女優 』(幻冬舎)。近著『ホームシックシアター』(実業之日本社)も好評発売中。
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