窓の向こうは夜の草原。空に月。
月明かりに、薄く稜線(りょうせん)が浮かびあがっている。阿蘇の山々だ。
ここは久住高原。標高865mにある、自然の中のホテルである。
バリ島のコテージをイメージしたという部屋は、木造りで温かみがあり、42平米とゆったり。
今しがた温泉に浸かってきたので、体の芯からぽかぽかだ。
美味しい食事もいただいて、お腹いっぱい胸いっぱい。
さっさと寝てしまうにはもったいないと、荷物の中から、画用紙とパレットを取りだした。
パレットは、小さい絵筆と絵の具が付いている100円のものだ。薄くて軽くて持ち運びによい。
ジャージー牧場のヨーグルト容器を洗ってバケツ代わりにし、小丸の隣に腰をおろして、何を描こうか考える。
今日は車でやまなみハイウェイを走った。
見渡すかぎりの草原は、夏であれば一面緑なのだろうが、今は枯草色の薄茶のじゅうたん。そこへ陽光が降り注ぎ、さらさらと風が吹くたび、あちこちが黄金色に輝いていた。
なんという雄大さ、神々しさ。
なだらかで黄金色の全体に、すっぽり包まれるような心地良さであった。
うっとり思い返しながら小丸の画用紙に目を落とすと、前衛的な黒い線がほとばしっていた。
「何を描いてるの?」
「これはね、外のお風呂」
嬉しそうである。
「これはね、中のお風呂」
この上なく嬉しそうである。
「お風呂と月。うふふ」
本当にお風呂が好きなのだね……。
風呂を描き切った小丸は、今度は、黄緑色の絵の具をとった。
「これはイチゴ」
ふむ。しかしなにゆえに黄緑?
「これはまだ甘くないの」
ほう。
「これから、お日様で、赤くなるだからね」
今日はイチゴ狩りをしたのだが、そういえば、黄緑色の硬い実を、食い入るように見ていたっけ。
小丸は続いて赤いイチゴを描いた。
「これはもう甘いよ」
あらおいしそう。
「おいしいですよ。めしあがれ」
破顔一笑。なんというか、いろいろなことがどうでもよくなる最強の笑顔である。
イチゴを2粒3粒と描きながら小丸はつぶやいた。
「今日は“魔法のくりぃむ”、なかったね」
コンデンスミルク(以下ミルク様)のことである。今日訪れたイチゴ農園では出なかった。
小丸は残念だったかもしれぬが、こちらは助かった。
なぜなら彼は無類の甘いもの好き。あればどうしてもかけすぎたり、イチゴよりミルク様に気を取られたりするからだ。
そんなわけで我が家におけるミルク様の位置付けは、“イチゴ狩り、もしくは、よその御宅でたまに出る魔法のくりぃむ”ということになっている。
スーパーでミルク様(赤いチューブ型)を見つけた小丸が、「あれは何」と聞いてきても、「歯磨き粉じゃね?」で通している。陳列がイチゴの隣なので、相当訝しんでいるようだが。
ホテルの売店で買ったハガキにも、絵を描いた。じじばばや幼稚園の先生に出すという。
「ママ、えんぺつ頂戴」
えんぴつね。はいどうぞ。
真剣な顔でえんぴつを握り、習字のようにスラスラッと、線(彼にとっては文字)を書いていく。
黙々と書いていたが、隣で私が住所を書きだすと、「それなあに」と手を止めた。
「これは郵便屋さんへのお手紙。ここに届けてね、って書いてるの」
「書くとおばあちゃんに届くの」
「そう」
「書かないと届かない」
「正解」
「じゃあ書きな」
なにその命令口調。
切手を貼るかと尋ねたら、二つ返事で「ここに貼る!」とハガキの真ん中を指した。
「そこはダメ。貼る場所は決まっている」
「どうしても?」
「どうしても」
この世には決まり事が沢山あるのだよ。多少面倒で窮屈な決まりでも、守らないともっと面倒なことになるのだよ。たとえばこのハガキの決まりを守らなければ、さっそく郵便屋さんが困るのだよ。
そう言うと小丸は「そうか。そうなのか」と神妙な顔で頷いて、所定の位置にぺたと貼った。
今すぐ投函しに行く、と言い張る小丸をなだめる。
「郵便屋さんももう寝る時間」
絵本を読んで、照明を落とすと、風の音が聞こえてきた。
「ママ怖い?」
「ちょっとね」
「大丈夫だよ。小丸がママを、守ってあげるからね」
N氏はすでにぐうぐう寝ている。
これ以上の幸せがこの先あるのだろうかと、不安になるほどの夜だった。
小丸は今月、4歳になった。
ハガキは帰宅した翌々日に到着。ポストを覗いた小丸は、「郵便屋さんが持ってきてくれた」と大喜びでした。
1970年横浜生まれ。慶応義塾大学卒業後、損害保険会社に入社。広報の仕事でエッセイを書きながら、「やはり物書きの道へ」と心を決める。旅行と甘いものが好き。01年よりOLを辞め、執筆業に専念。同年、ホラーサスペンス大賞で『火群の館』(新潮社刊)が特別賞受賞。著作に『女優』(幻冬舎)。近著『ホームシックシアター』(実業之日本社)も好評発売中。
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