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愛の旅人

落語「替り目」
»〈ふたり〉へ志ん生とりん―東京・日暮里

 この欄で師匠のこと書くって言ったらきっと、迷惑そうに「冗談じゃねェ!!」って言うでしょうね。得意のギャグ、「くすぐり」で、こう続ける。

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たまには、夫婦で谷中の花見でも。写真は、志ん生が脳出血から退院した直後に撮られた。2人だけの写真は珍しい

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新宿・末広亭。出の準備をする古今亭円菊さん。左の火鉢の辺りが志ん生の定席だった

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谷中銀座商店街で落語を流している小川安ニさん

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 「なにィ? 愛の旅人? あのねェ、股ぐらから手ェ突っ込んで、背中掻(か)くようなこと言っちゃいけません」

 最近の落語ブームに関係なく、師匠のCDは繰り返し発売され、断トツの売り上げです。「落語界の夏目漱石」とか、「志ん生が落語」といわれる師匠だもの、身辺のことなんか洗いざらい語りつくされ、書き尽くされたかもしれません。でも、いま、師匠と妻りんさんの話を書くのに、このページこそ、ふさわしい。

 ま、照れないで、読んで下さい。おふたりの「愛の話」を――。

♪  ♪  ♪

 「最近、お母ちゃんのこと考えると、まじめに思うんですよ」

 東京・日暮里駅近くの喫茶店で、メモ帳を取り出す私を待ちきれないように美濃部美津子さん(82)が言った。「観音様だって。お父ちゃんと子どもたちに尽くし続けた、やさしい観音様……」。末弟の志ん朝も01年に急死、「とうとう、ひとりぽっち」と落語家一家の長女は笑った。

 志ん生の放蕩(ほうとう)人生は有名である。「飲む・打つ・買う」の3道楽のためなら、他人の物を平気で売り飛ばす。15歳で父に勘当されたのも、昭和初め、寄席から追放されたのも、無断の質入れが原因だった。りんさんの嫁入り道具だって1カ月ですべて質屋行き。そうして「どん底もこの下なし」の貧乏生活である。結局、借金逃れの改名と夜逃げ……。「明け方は大家も近所も油断してるから朝逃げだ」(志ん生)などと言ってる場合じゃない。

 志ん朝がこんなことを言った。

 「親父(おやじ)は貧乏じゃなかった。お金が入るとすぐ使っちゃう。だから、家は貧乏だった。苦労したのは親父ではなく、母であり、兄貴や姉貴です」

 だからこそ「貧乏」は深刻だった。

 そんな夫を見守りながら、りんさんは内職で一家を支え続ける。美津子さんは、長屋2畳間で夜遅く針仕事をする母を覚えている。「お母ちゃんの一生は、内職でした」

 師匠の「くすぐり」がある。

 長屋のかみさんが亭主の悪口を言い合っている。「そんな亭主と、なぜ別れない」と聞かれた女房が言う。

 「だってェ、寒いんだもの……」

 美津子さんはある日、こう聞いた。

 「お母ちゃん、よく別れようと思わなかったね」

 りんさんはしっかり言った。

 「箸(はし)にも棒にもかからない人だったけど、落語を捨てなかった。稽古(けいこ)は一生懸命だった。こんなにやってるんだからいつか立派になる、と思った」。そして「父さんのばくちと同じだよ、あたしは父さんに賭けたんだ」。

 妻の賭けに夫は応えた。

妻の思いを落語で返した

 一本のテープがある。古今亭志ん生夫妻が昭和の初めの3年間、東京都渋谷区笹塚に住んだ頃を語っている。師匠の紋付きを質入れして高座を締め出された、あの極貧の時代である。演芸評論家の小島貞二さん(03年、84歳で死去)が69年、自伝の改訂版のため志ん生宅で録音した。

 妻りんさんが言う。「(生活は)もうめちゃくちゃ……。アカガエルを捕まえ、原っぱでタンポポやオンバコを採って子どもたちに食べさせた。よく、おなかをこわした……。でも、病院のお金がないの……」

 そんな時、遊びほうけた志ん生がこうがん炎にかかって帰ってきた。「氷を買ってこい」と怒鳴る。内職のわずかなお金を持ち、次女喜美子さんをおぶって、毎日、魚屋へ氷を買いに行く。みすぼらしい母と子に、警察官が不審そうにつけてくる。

♪  ♪  ♪

 りんさんが突然、声を詰まらせ涙声になった。「あたしの前では愚痴ひとついわない。歯ァ食いしばって、涙も向こうをむいて拭(ふ)いて、頑張ってきた」(志ん生)気丈な女の涙だった。

 「よせよ、泣いたりすんの……」

 ぼうぜんとしながら、妻をいたわる志ん生の声がテープに残る。

 照れ屋の志ん生が珍しく、「うちのかかァにしゃべってるようで、身につまされる噺(はなし)ってありません」という落語がある。十八番「替(かわ)り目」である。

 ――亭主が今夜もへべれけに酔って帰ってきた。もっと飲ませろ、と女房に悪態をつき、「おでんを買って来い!!」とわめく。一人になった亭主、口では乱暴なこと言ったけど、本当は感謝してます、好きです、とのろける。振り返ると、女房がいる……。

♪  ♪  ♪

 「あれほど、つながった夫婦って、ありません」

 新宿・末広亭2階の楽屋で、火鉢に手をかざしながら古今亭円菊さん(77)が言った。終戦直後の木造の建物はがたぴしするけれど、寄席らしいたたずまいが残る。

 志ん生に弟子入りして20年、ずっと身の回りの世話をした。晩年の3年間は、脳出血から復帰した師匠をおぶって高座に通った。

 入門して1年半、廊下磨き、便所掃除と一日の休みもない。辞めようと決め、早めに師匠の家に着いた。いつもならいる師匠が「仕事に出た」という。

 りんさんが客間のタンスから古い紋付きを出して、「これ、お前にあげるから」と言った。紋付きは二つ目になって初めて着ることができる。「そこまでがんばれ」の励ましだった。

 いくらおかみさんでも、大切な紋付きを無断で渡すわけがない。円菊さんは「後ろ」に師匠を感じた。

 その紋付きで二つ目になった。生活は依然苦しい。式も挙げられず結婚し、妻と報告に行った。りんさんが言った。「子どもは一生の食いぶちをもって生まれる。貧乏だっていい、早く作って、大切に育てるんだよ」

 のし袋をもらった。3万円入っていた。秋葉原で値切って小さな冷蔵庫と3合炊きの炊飯器を買った。アパートのうらぶれた4畳半が明るくなった。

 68年春、女の子が生まれた。早産で保育器に入った。「3キロになるまで出せない」という。払う金がないのに、目方はなかなか増えない。円菊さんが落語調で「先生、世間は初夏の感じ、もうそろそろ……」と聞くと、医師は保育器から出るのを許可してくれた。「いいよ、大事にしなさい」

 その言葉に、りんさんを思った。

 東京・世田谷の住宅街に女優南田洋子さんを訪ねた。50年代の志ん生夫妻を知る数少ない人だ。当時、大映のスターだった彼女は月刊芸能誌の対談記事で初めて会った。あこがれだった。

 南田さんは小学生の頃から近くの寄席で遊んだ。10代後半で聞いた「火焔(かえん)太鼓」で師匠が好きになった。

 親しくなって師匠宅へ行った。「お茶、飲む?」って師匠が聞いた。「はい」って言うと、冷や酒がでてきた。

 「奥さんにしかられて……。粋で、節度があって、かたちのいい、落語家らしい夫婦、でした」。南田さんはそこに、「芸人の夫婦」をみた。

♪  ♪  ♪

 長女の美津子さんは毎晩、枕元のラジオをつけたまま寝る。深夜放送で父親の高座が流れる。甲高い声で、ふっと目が覚める。聞くうちに、父と母と過ごした50年の日々がよみがえる。

 「火焔太鼓」の気っぷのいい女房も、「子別れ」の針仕事が得意なかみさんも、「芝浜」のしっかり奥さんも、「みんな、お母ちゃんのことだった。ずぼらなお父ちゃんだもの、落語の中でしか、ありがとう、って言えない」。そして「お母ちゃんの思いを、きっちり、落語で返したのよ」。

 歯切れのいい江戸弁になっていた。

文・斎藤鑑三 写真・水村 孝
(04/22)
〈ふたり〉

 東京・神田で警察官の五男に生まれた美濃部孝蔵は15歳で家を飛び出し、17歳で三遊亭円盛の下で落語家となった。放蕩は激しく、借金取りから逃れるため16回も名前を変え、講釈師も経験する。39(昭和14)年、五代目古今亭志ん生を襲名した。

 22(大正11)年、下宿屋の長女りんと結婚したが、翌日には遊びが始まる。「貧乏神とは礼状の束が来るほど付き合った」(志ん生)のは、26年の渋谷区笹塚から墨田区業平にかけての10年間だろう。

 「新築、家賃タダ」で引っ越した業平の棟割り長屋は「でっけえナメクジがぞろぞろ、蚊の野郎がワンワン集まり、家ん中、蚊柱が立った」という、有名な「なめくじ長屋」だ。終戦直前、空襲の恐怖と酒の誘惑から三遊亭円生らと旧満州へ興行に出たが、そのまま1年半、音信が途絶えた。

 生活が安定したのはラジオで人気が急上昇し、専属契約を結んだ50年代中頃から。61歳で荒川区西日暮里に家を造る。初めての持ち家だった。68年、演題では廓噺(くるわばなし)「二階ぞめき」のはずがいつの間にか「王子の狐(きつね)」となり、これが最後の高座となった。

 71年の妻の死を追うように、その2年後、83歳で眠るように逝った。



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