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愛の旅人

一葉日記
»〈ふたり〉へ樋口一葉と半井桃水―東京・平河町/対馬

 寒い朝だった。10時ころから霙(みぞれ)まじりの雨が降りだした。樋口一葉(夏子)は、東京・本郷菊坂の家を出た。真砂(まさご)町あたりで、とうとう雪になった。壱岐坂で歩くのをあきらめ、人力車を拾った。九段坂を上ると堀端通りの雪が白く光っていた。平河天満宮を越せば半井桃水(なからい・とうすい)の「隠れ家」はもうすぐだ。1892(明治25)年2月4日昼過ぎのことだった。

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リアス式海岸が美しい対馬の海。夕暮れのおだやかな海面に、ゆっくりと波紋が広がった=対馬・浅茅湾で

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桃水の隠れ家近くの平河天満宮。若い女性が石づくりの牛をなでていた=東京・平河町で

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菊坂の一葉旧居あたり。かすかに煮物の香りが漂う=東京・本郷で

 じきに20歳になる一葉は、小説を書き始めたばかりだった。知人が桃水の妹の知り合いという縁で、東京朝日新聞の小説記者・桃水に小説の指導を受けていた。知り合って10カ月、一葉は、美男で31歳、男盛りの桃水に強くひかれていた。

 雪は降り続く。ふたりは新しく出す同人誌について語り合う。桃水はお汁粉を作ると言い、隣家に鍋を借りに行く。おかみさんが「お楽しみですね」と冷やかすのが聞こえた。夕暮れになった。桃水は、雪だから泊まっていけ、自分は近くの知人宅に行くから、と言う。一葉は、とんでもない、と断り、呼んでもらった人力車で帰途につく。雪に

沈む町を見ながら「種々(さまざま)の感情むねにせま」るのだった。

 「このマンションのあたりでしょうねえ」。花冷えの午後、案内していただいた東京都千代田区六番町の町会長・新井巌さんは、7、8階建ての大きなマンションを指さす。桃水の隠れ家は現在の千代田区平河町1丁目あたり。貝坂の近くで、マンションがいくつも立ち並ぶ。「もう当時をしのぶよすがはありませんね」

 ただ、すぐ近くの平河天満宮の一角だけが、町家が並んだという明治の名残をわずかに感じさせた。天満宮は江戸城築城時に移設されてきたという由緒ある神社で、ずっとこのあたりのランドマークだ。一葉は何度もこの神社の鳥居を横目に、桃水のもとに通ったに違いない。

 半井桃水という人物は、そんなに知られていない。明治、大正の新聞小説家であり、「樋口一葉の師で、恋人だった男」と、明治文学史の脚注に載る程度だ。

 この3月、出身地である長崎県・対馬の厳原(いずはら)を訪ねたが、「一葉さんが5000円札に登場してからですよ、ここでも桃水の名がいわれるようになったのは」と地元の人は言う。厳原には桃水の生家といわれた古い家が残っていたが、町並み復元のため取り壊され、跡地に「半井桃水ふれあい館」という施設が建設中だった。ようやく地元でも広く認知され始めたところだ。

 一葉はあの雪の日の1年後、その名も「雪の日」という小説を書き、ひそかに日記に桃水への思いも書き連ねる。その日記が公開されたのは一葉死後16年の1912(明治45)年だった。世間は桃水へのせつせつたる一葉の恋心に衝撃を受ける。あの一葉女史が恋した男、桃水とは何者なのだ。

日記に表れる心の高ぶり

 玄界灘に浮かぶ対馬。桃水の出身地のこの島を訪ねた私は、北端の町、比田勝(ひたかつ)に足を延ばした。早朝、丘に登れば茫洋(ぼうよう)たる海一面。海と空が溶け込む水平線に目を凝らすと、何かが光った。備え付けの望遠鏡にコインを入れてのぞくと、まぎれもなく韓国・釜山のビル群だった。釜山は若き桃水が暮らした所、ここからわずか50キロだ。

 厳原に住む日野義彦さん(80)は対馬の民俗に詳しい。若い時から桃水に興味を持ち、桃水を直接知る古老から「冽(れつ)おっさま」(冽おじさん)と親しみを込めて語るのを聞いた。日野さんは父の友人からこんな話も聞く。

 明治の終わりごろ、上京して東京外国語学校に入学する時、桃水に保証人になってもらった。東京・麹町の家を訪ねると、桃水は「やせぎすで青白い顔をし、右のほおに小指大のアザがあった。よくしゃべる方ではなかったが、聞くと親切に答えてくれ、思いやりのある人だった」。親切で思いやりのある男とは、一葉からみた桃水の印象とほぼ同じである。

♪  ♪  ♪

 一葉日記は「雪の日」の前年、1891(明治24)年4月に始まる。冒頭近くの15日の項に、初めて桃水を訪ねた記述がある。「色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん」

 第一印象から点数が高い。「心の高ぶりが感じられます。日記を書くきっかけは、明らかに桃水との出会いでしょう」と山田有策・東京学芸大教授(近代文学)は指摘する。

 人はなぜ日記を書くのか。心の内に、何か表現しなくてはおさまりがつかない感情が生じるとき、深夜ひそかにペンを握るのだ。山田教授によると、それ以前にも「身のふる衣 まきのいち」という日記風の手記があるが、これも一葉にとって大きな存在だった歌塾「萩(はぎ)の舎(や)」に入塾してしばらくのことで、やはり高揚した気分があったから、という。

 桃水は一葉の小説を雑誌に掲載し、文壇デビューを手助けした。だが、「萩の舎」の知人から桃水との仲を中傷された一葉は絶交を決意、以後、疎遠になる。彼女の短い晩年の交友は、泉鏡花、馬場孤蝶(こちょう)、平田禿木(とくぼく)、斎藤緑雨ら、秀才文学青年らが中心になる。

 一葉全集が刊行され、桃水への思いが記された日記が初公開されると、われこそは一葉女史の最大の理解者だ、と信じる晩年のボーイフレンドたちは愕然(がくぜん)とした。桃水? あの新聞小説家か。男の嫉妬(しっと)は恐ろしい。平田禿木は後に「半井氏は歌沢や端唄の作詞家にすぎず、大衆小説にも及ばない新聞小説作家で、文学史上価値のない存在だ」と反感丸出しの文章を書いた。

 桃水はしかし「女史は恋を歌う人で、実行し得る人ではない」と口さがないうわさにとりあわなかった。

♪  ♪  ♪

 私が厳原を訪ねた夜、偶然にも作家森まゆみさんの講演が公民館であるというので、聞きに行った。森さんは一葉研究でも知られ、「こんにちは桃水さん」という演題で桃水と一葉について語った。森さんはあの「雪の日」が、一葉にとって恋の最絶頂だったと述べる。

 独身男の隠れ家(実際は仕事場だったが)に呼び入れ、夕方になると泊まっていったら、などと言う。怪しい。お汁粉も、怪しいといえば怪しい。一葉の方も、日記に「中々におもしろし」といわくありげなことを記す。

 日記というものは、なかったことはまず書かないが、あったことを書かないことは、ありうる。また、一葉日記は妹くにが保管していたが、彼女が「取捨選択」した可能性はないだろうか。謎は多い。

 「それで先生は結局、どう考えているんですか」。講演の終わり、地元の年配者が鋭い突っ込みを入れた。森さんはほほ笑みつつ、「24歳で亡くなった一葉さんを思えば、そんなことがあったらよかったのに、と思います」と答えていた。

♪  ♪  ♪

 厳原に長寿院という古いお寺がある。江戸時代、朝鮮通信使との折衝で日本側の窓口になった儒者・雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)の墓がある。ここには、桃水の最初の妻もと子の墓もあると聞いて出かけた。彼女はやはり武家の娘で、若き桃水と釜山で暮らしたが、新婚1、2年で病没したらしい。たいへん美しい人だったといわれる。

 お墓はすぐわかった。さほど古くない、清潔な感じの墓だった。その墓石には「秀門院芳蘭香桂大姉」と彫ってあった。美しさがにおいたつような文面だ。桃水が一葉の思いに無関心だったのは、もと子を忘れられなかったからだ、という説を思い出した。

文・牧村健一郎 写真・山本正樹
(04/29)
〈ふたり〉

 樋口一葉は東京で下級官僚の次女として出生。なつ、夏子、奈津とも記す。父や兄の死後、戸主として母や妹を支える。24年の生涯で20余編の小説を書き、特に「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を書いた最晩年は「奇跡の14カ月」といわれる。身辺や交友を詳細に記した日記が残り、小説と並んで人気が高い。日本で初めての女性職業作家。昨春、千代田区内幸町1丁目に生誕碑が建てられた。

 半井桃水は対馬・厳原で生まれた。藩主・宗(そう)家の御典医の家の長男で、幼名泉太郎のちに冽(きよし、れつ)と名乗った。泉太郎という名は一葉の亡兄と同じで、一葉はその偶然も好ましく感じたという。少年時代に韓国・釜山に渡り、その後上京して学び、東京朝日新聞に入社、小説記者として活躍する。その間、釜山に駐在し、海外特派員第1号でもある。

 朝鮮半島を舞台にした「胡砂(こざ)吹く風」「春香伝」が代表作で、1919(大正8)年まで37年間も新聞小説を書き続けた。日露戦争で乃木将軍の旅順攻撃に従軍、水師営の会見を特報した。明治末に再婚し、晩年は長唄や端唄の作詞家として知られた。



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