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愛の旅人

池波正太郎「真田太平記」
»〈ふたり〉へ真田幸村とお江―長野・上田/大阪

 いつの世も、湯煙は疲れた体を癒やし、心を和ませる。

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幸村人気は今も健在。「真田まつり」には女忍びも登場、色を添えた=長野県上田市の上田城跡で

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巨木が枝を伸ばす大坂夏の陣の古戦場、茶臼山=大阪市天王寺区で

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真田庵の鳥居には六文銭の紋が=和歌山県九度山町で

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 「あなた様はまだ女体をご存じないのでは……」

 硫黄がにおう湯煙の先に、お江(こう)の豊かな乳房が揺れる。真田幸村18歳。舞台は信州・別所の「隠れ湯」である。

 池波正太郎の小説「真田太平記」に描かれたお江は、幸村の父昌幸に仕える忍びの集団「草の者」の女忍びだ。

 乱暴者のいとこに襲われた幸村を救った直後のこと。幸村の血はまだ騒いだままだ。

 性技にもたけている年上の女忍びが血気にはやる若殿を鎮めるのはたやすい。小柄な幸村は、お江の両腕にすっぽりとかくれる。大人にする喜びを感じても不思議はない。

 命の恩人でもあるお江との3夜。

 「10歳も大人びたようだ」。館に戻った幸村の変わりように家来たちがうわさした。

 信州・上田と上州・沼田にまたがる真田領。周りは強敵ばかり。何よりも情報が必要だ。昌幸は草の者を大切にした。草の者の頭分は、昌幸の私室「地炉の間」に自由に出入りできた。

 乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)とさげすまれる忍びの者。金次第で誰にでもなびく。だが、草の者は欲得とは無縁。

 お江は一番の腕利き。1日に何十里も駆ける。男相手に戦っても引けを取らない。お江を捕まえ、なぶり続けた敵の「男」を切り取って逃げるような血生ぐさいことも平気でしてのける。変装も自在。老婆にも娘にも化ける。何歳なのか。本人以外、知らない。

 時は流れる。徳川家康を上田に迎え撃った攻防で、昌幸と幸村の兄、信幸の知謀、武勇は天下に鳴り響く。幸村はまだその陰に隠れ、目立たない。

 豊臣の天下へと移り、平和が訪れたのもつかの間、秀吉の死後、風雲急を告げる。嵐の主役は真田の天敵、家康である。

 真田一族も、信幸は徳川方へ、昌幸と幸村は豊臣方へと割れた。幸村がひのき舞台に躍り出る時がきた。

 2度目のお江との2人だけの出会いはそんな時だった。

 昌幸父子は関ケ原に向かう徳川方の別動隊を再び上田で迎え撃つ支度に追われた。その合間を縫って、幸村はひとり別所の湯に足を運んだ。

 誰もいなかった湯小屋に立ちこめた湯煙がわずかに揺れる。16年ぶりに目にするお江の裸身。

 「ここで幸村様を男にしてさし上げました」

 「たわけたことを……」

 長い空白が埋まる。幸村の前に40歳を超したとは思えぬ姿が浮かび上がる。

 お江は、京へ上る家康を襲うつもりでいる。生還は望めない。

 「お江の女も、今夜かぎり……」

 不死身の女忍びから、生身のお江に一夜だけ戻った。

街おこしに生きる幸村伝説

 いつの世も、大衆は英雄を求める。天下太平なら英雄はいらない。心の憂(う)さ、屈託や不満を英雄の口を借りてはき出す。

 「日本一の兵(つわもの)」とたたえられた真田幸村(1567〜1615)はそんな一人である。

 英雄には伝説がついて回り、虚実も入り交じる。

 幸村の元服名は源次郎信繁(「真田太平記」では源二郎)。兄が源三郎信幸だから、長幼の常識では逆順だ。1570年生まれ説もあり、なぜこうなったかは分からない。後に朝廷から官職左衛門佐(さえもんのすけ)を授けられた。

 幸村という名は、死後100年以上たった18世紀中頃から後半に書かれた軍記物などに現れる。幸村が生きていたころの歴史的文書には見あたらないという(山村竜也「真田幸村」)。

♪  ♪  ♪

 幸村ほど人気のある武将は少ない。豊臣秀吉や徳川家康のように天下を取ったわけでもなく、一国一城の主でもない。最後は大坂夏の陣で討ち死にした敗軍の将に過ぎない。

 幸村は肖像画を見ても、偉丈夫とは言えそうもない。だが、父昌幸(1547〜1611)譲りの知謀・戦略を駆使して、劣勢な豊臣家を助け、強大な家康を相手に戦って散った武将としての潔さが、判官びいきの国民性にぴたりとはまった。

 大坂城の抜け穴を伝って主君豊臣秀頼を守りながら脱出、生き延びたと記した軍記物もあり、幸村の奮戦ぶりに拍手喝采した庶民が多かったことを思わせる。

 関ケ原後、真田領は兄信之(信幸を改名)が引き継いだ。1622年、真田嫌いの2代将軍徳川秀忠の命で上田から隣の松代(長野市松代町)に移される。上田では、真田家による支配を懐かしむ領民が多く、新領主への反発から百姓一揆が多発したという。 幸村伝説をさらに広めるきっかけになったのが、大阪の版元が売り出した「立川(たてかわ)文庫」だ。明治から大正にかけて相次いで出版されたこのシリーズで、猿飛佐助、霧隠才蔵ら真田十勇士が次々と生み出された。講談の主役ともなり、幸村人気が沸騰した。

 伝説にも幾ばくかの史実の根っこはある。真田家が仕えた武田信玄は、豊富な資金で、諜報(ちょうほう)・謀略組織を作り上げた。僧、商人、医者、修験(しゅげん)者に姿を変え、敵の情報を探った。信玄は戦乱で生まれた捨て子や孤児から美少女を選び、巫女(みこ)として修業を積ませた。妖艶(ようえん)な姿で各地を歩き回り、男では集められない貴重な情報をもたらした。女忍者「くノ一」の元祖といえる(「別冊歴史読本 伊賀甲賀忍びの謎」)。

 武田家が滅んだ後、真田一族は、信玄の手法を引き継いだ。山に囲まれた真田領はもともと山岳信仰が盛んだ。修験道を究めた多くの山伏が手足となって活躍した。「猿」と呼ばれた者もいる。猿飛佐助を連想させる。

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 忍者の故郷は、甲賀(滋賀県甲賀市)と伊賀(三重県伊賀市)である。両県にまたがる山岳地帯には、古くから信仰の対象となった霊峰が多い。薬草もたくさん採れた。医薬の知識を身につけた山伏は、各地で治療を施しながら、うわさや戦(いくさ)の情報を集め、戦国大名に売った。

 「真田太平記」で活躍するお江は甲賀の流れをくむ忍びである。

 甲賀忍者53家中の筆頭格、望月出雲守の屋敷として、今から約300年前に建てられた「甲賀流忍術屋敷」(甲賀市甲南町)。隠し戸、隠し天井、抜け穴やどんでん返しの壁などの仕掛けがあり、忍びの一端を知ることができる。休日には家族連れでにぎわう。忍術屋敷の主、福井博さん(76)は、観光客に問われると、こう説明する。

 「お江は人気者で、よくお客さんからも、本当ですかと聞かれますが、あれは小説やテレビでの話です。実際の忍者は山伏か坊さんの姿で、薬を売りながらスパイ活動をしたようです」

 忍者ファンとしては期待はずれだ。福井さんの名詞にも「近江製剤」代表とある。もう営業していないが、忍者と医薬とのかかわりをしのばせる。

 平和になればスパイは不要、忍者も失業する。徳川幕府に雇われた者もいるが、多くは帰農し、薬草採りや畑仕事に精を出した。甲賀市には製薬会社が多い。忍びの里から、薬の里に変身した。

♪  ♪  ♪

 この連休中も、幸村ゆかりの長野県上田市や昌幸・幸村父子が流された和歌山県九度山町で、真田にちなんだ祭りが開かれた。日ごろ静かな町に、多くの人が繰り出し、「六文銭」の旗印や真っ赤な武具に身を固めた「赤備え」の武者行列を楽しんだ。

 幸村は、死後400年たった今も、地域おこしや観光振興になお健在だ。

文・植木裕光 写真・中井征勝
(05/13)
〈ふたり〉

 戦国末期の16世紀末から、豊臣秀吉の天下平定を経て、徳川家康による幕府樹立へと続く17世紀初頭までの争乱の時代。信州・上田を本拠にした真田家の興亡を描いたのが、「真田太平記」だ。

 「死ぬ前に女を抱きたくはないかえ」。織田軍に包囲された信州伊那・高遠城の一角。討ち死にを覚悟した若者に、お江がささやく場面から物語は始まる。

 血生ぐさくなりがちな時代小説も、お江らの活躍で、楽しい読み物になっている。色模様もさらり。

 真田昌幸、長男の信幸、次男の幸村のほか、豊臣秀吉、徳川家康ら実在の人物に、真田一族を支える草の者、徳川に仕える甲賀忍びら多彩な群像が絡む。徳川軍による2度の上田攻め、関ケ原の戦い、紀州・九度山(くどやま)への配流、冬と夏の大坂の陣などの史実と、お江らの活躍など虚が入り交じる。

 週刊朝日に449回(74〜82年)連載。新潮文庫(12巻)。



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