「智恵子抄」
»〈ふたり〉へ高村智恵子と光太郎―福島・二本松/岩手・花巻
何事にも光と影がある。どんなにすばらしい人生も、影だけが強調されれば、色あせてしまう。
 残雪が光る安達太良山(阿多多羅山)の上に、ほんとの空があった。阿武隈川にかかる智恵子大橋から=福島県二本松市で
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 十和田湖畔に立つ「乙女の像」=青森県十和田市で
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 智恵子と光太郎が散歩した「愛の小径」=福島県二本松市の智恵子の杜公園で
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 高村光太郎と智恵子=高村光太郎記念館所蔵
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福島県の旧安達町(現二本松市)。生まれ故郷での高村(旧姓長沼)智恵子は長い間、そんな存在だった。
新緑がまぶしい生家の裏山を、息を切らしながら20分ほど。鞍石(くらいし)山の頂上に立つと、360度に視界が開けた。桜の木の下に詩碑が立っている。
あれが阿多多羅(あたたら)山、
あの光るのが阿武隈(あぶくま)川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
高村光太郎が1923(大正12)年、智恵子と散策の途中に書いた「樹下の二人」の一節だ。旧安達町の有志が83年、資金を出し合って建てた。ところが隣の旧二本松市では、20年以上前の60年に、菊祭りで有名な霞ケ城公園に詩碑ができたという。阿武隈川や智恵子の生家も見えない高台だった。
なぜか――。旅の始まりだった。
鞍石山のふもとに住む旧安達町長の菅沢伝良(でんりょう)さん(80)に聞くと、意外な答えが返ってきた。「当時、私は町政とは関係なかったが、詩碑を建ててもいいかという二本松市の打診に対し議会が同意したのを覚えている。当然、智恵子を売ったという批判もあった」
生家から歩いて5分ほど。昨年1月に発足した「智恵子のまち夢くらぶ」代表の熊谷健一さん(55)は「智恵子の実家は破産し、本人は心の病を発症した末に亡くなった。長い間そんなマイナスイメージに支配されてきた」と話す。生家を保存しようという話にも、ほとんど盛り上がらなかったという。
光太郎研究家の北川太一さん(81)=東京在住=は、実家の長沼家はエリート意識が強く地元では浮き上がっていたとみている。当時女性には高根の花の大学に智恵子と妹を通わせたことで周囲にひがまれ、複雑な家系は陰口の材料になった。智恵子との結婚の許しを請う光太郎に、父光雲は最初は長沼家の評判の悪さに反対したという。
旧二本松市は、86年と88年には智恵子の紙絵展を開催。さらに2年がかりで智恵子の生涯をまとめた「アルバム 高村智恵子 その愛と美の軌跡」を出版した。
旧安達町が生家の保存を決めたのは89年。アルバム発刊の数カ月前だった。「議会にも智恵子の生家の保存を求める声は強くなってきたが、何しろ金がなかった」と菅沢さんは言う。そこに降ってわいたのが竹下元首相の「ふるさと創生資金」だった。92年、生家を復元し、展示館の智恵子記念館をオープンさせた。智恵子が亡くなってすでに半世紀以上がたっていた。
生家前の道はいま、「智恵子純愛通り」と名付けられ、記念碑と標柱を建てる募金活動が展開されている。
智恵子はきょう20日、生誕120年。光太郎は今年没後50年を迎えた。
時を超え、つづられた愛
故郷でようやく光があたった智恵子と光太郎。復元された木造2階建ての智恵子の生家は、清酒「花霞」の看板と杉玉が造り酒屋時代をしのばせる。玄関を入ると、裕福だった頃を物語る蓄音機や智恵子愛用の琴、はた織り機……。流れるベートーベンの「田園交響曲」が欧州帰りの光太郎と美を求めて生きた智恵子の姿を思い描かせる。
旧安達町で智恵子記念館を担当した木村篤史さん(二本松市職員)によると、展示品は競売などですべて人手に渡っていたので集めるのには2年近くかかった。提供者は20人以上に上ったという。長沼家は父今朝吉の死後、次第に経営に行き詰まり破産した。土地はもちろん家財も様々な人に売り払われており、仏壇は地元の人の蔵から見つかった。庭のフジは人手を経て霞ケ城公園の池のほとりに移植され、いまも白い花を咲かせる。
裏庭には酒蔵をイメージした智恵子記念館があり、智恵子の紙絵や光太郎のブロンズ作品が展示されている。
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ロダンにあこがれた光太郎とセザンヌに傾倒した智恵子。光太郎は詩や彫刻、智恵子は油絵に打ち込んだ。だが、智恵子は展覧会で落選してからは、光太郎が何度勧めても二度と出品することはなかったという。現存する油絵は「花」など3点しかない。
病弱な智恵子は結婚後も肋膜(ろくまく)を患うなど病気がちで頻繁に里帰りした。「樹下の二人」が書かれた1923年はそんな時期だった。光太郎は後の「婦人公論」で振り返っている。
「東京にいると病気になり、実家に帰ると回復するのが常で、たいてい1年の半分は田舎に行っていた。私は印税を旅費にして実家を訪ね、智恵子と裏山を散歩してパノラマのような見晴らしをながめた」
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この時、父今朝吉はすでに亡く、長沼家は家庭内のごたごたや経営不振が次第に深刻化していた。光太郎を心配させまいと気遣う智恵子はたびたび一人で実家に帰ったが、やがて破産。病気を再び悪化させていった。光太郎が長沼家の状態を知らないはずはなかった。破産の前年の28年に書いた「あどけない話」は、一家の離散、故郷との別離を予感した智恵子の悲しみをうたったのかもしれない。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
智恵子に心の病の兆候が現れたのは実家の没落の約2年後。光太郎が三陸に旅行している間だった。さらに1年後には自殺未遂。光太郎は智恵子を連れて東北各地の温泉を回るが、悪化する一方だった。34年には母や妹セツの一家が移り住んでいた千葉県・九十九里海岸近くの別荘で智恵子を療養させる。光太郎は列車とバスを乗り継いで毎週、東京から見舞いに来たという。別荘はすでに取り壊され、「智恵子療養の跡地」の標柱が残る。海岸までは歩いて3分ほど。砂浜の手前には、「千鳥と遊ぶ智恵子」の詩碑が海を向いて立っている。
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
約7カ月後、東京に戻ったが、病勢はまるで機関車のように驀進(ばくしん)してきたという。35年、東京・南品川のゼームス坂病院に入院。3年8カ月の療養生活の後、この世を去った。智恵子の死に立ち会ったのは、病院関係者以外は光太郎だけだった。病院はもうなく、坂の途中に死の4カ月後に書かれた「レモン哀歌」の詩碑が立っている。
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ
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智恵子への思いは尽きなかった。
空襲で東京のアトリエを焼け出された光太郎は45年、宮沢賢治の実家の紹介で岩手県太田村(現花巻市)の郊外に疎開。粗末な小屋で農耕自足の生活をしながら智恵子への愛を詩に書き続けた。高村記念会事務局長の宮森祐昭さん(78)は「ほとんど詩作の毎日だった。アトリエがなく彫刻ができないことをいつも残念がっていた」と語る。
このころ書かれた「裸形(らぎょう)」には、智恵子を像として再現したいという思いがあふれている。
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
(中略)
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう
山居生活7年。青森県に要請された記念像で夢がかなう。53年、十和田湖畔に智恵子の面影を写した「裸婦群像」(乙女の像)を完成させると、やがて持病の結核が悪化していった。
文・佐藤昭仁 写真・江口和裕
(05/20)
〈ふたり〉
智恵子は1886(明治19)年5月20日、福島県安達郡油井村(現二本松市)で斎藤今朝吉とセンの長女に生まれた。本名はチヱ。今朝吉は後に長沼家の養子になる。福島高等女学校から日本女子大学校に進学。卒業後は女性雑誌「青鞜(せいとう)」の表紙絵を描いたりした。1935年、統合失調症のため入院。38年10月5日、粟粒(ぞくりゅう)性肺結核で亡くなるまでに、千数百点の紙絵を制作した。
光太郎は1883年3月13日、東京・下谷で仏師の高村光雲の長男に生まれた。東京美術学校を卒業。ロダンにあこがれ米国やフランスに留学した。帰国後は体質の古い日本美術界に反発、光雲とも対立した。詩人としても活躍。1941年8月に発刊した「智恵子抄」は空前のベストセラーとなった。
ふたりの出会いは1911年12月。智恵子25歳、光太郎28歳だった。14年12月、上野精養軒で披露宴をしたが、結婚の届け出は33年。智恵子の自殺未遂の1年後だった。