映画「君の名は」
»〈ふたり〉へ真知子と春樹―数寄屋橋/佐渡/雲仙
すれ違いは恋愛のスパイスだ。
 映画公開から53年の歳月が流れたが、数寄屋橋交差点はカップルが主役だ=東京都中央区で
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 春樹と真知子が再会した尖閣湾の遊仙橋(中央奥)。改築されてコンクリートに=新潟県佐渡市で
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 真知子岩は霧と雨と噴煙の中にあった=長崎県雲仙市で
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会えそうで会えない。一緒になれそうでなれない。そんな状況が恋人たちをいっそう盛り上げる。
空襲の夜、互いを助け合い、東京・銀座の数寄屋橋で半年後の再会を約束する真知子と春樹。別れ際、
春樹「君、肝心なことを。君の名は何て?」
真知子「わたくし……」
再び警報が鳴り、ふたりは名前を告げず、あわただしく別れていく。
東京、新潟・佐渡、長崎・雲仙などを舞台に、ふたりは深く愛し合うが、何度もすれ違い、じりじりするような恋に身を焦がしていく。
真知子と春樹が再会を誓った数寄屋橋は皇居(旧江戸城)の外堀にかかる石造りの橋だった。1957(昭和32)年、外堀が高速道路建設のため埋め立てられ、橋も取り壊された。
現在、名残をとどめるものは、近くの公園に立つ石碑のみ。碑には「君の名は」の原作者菊田一夫さんによる「数寄屋橋 此処(ここ)にありき」といった文字が刻まれている。
そんな数寄屋橋に魅せられた一人の女性がいる。
クラブ「数寄屋橋」のママ、園田静香さんだ。「数寄屋橋」は文壇バーとして知られ、渡辺淳一さんや森村誠一さん、北方謙三さんら作家たちでにぎわう。
園田さんは熊本市出身。映画で見た芸者にあこがれて花柳界に入った。その後、後援者の力添えを得て、銀座に進出、数寄屋通りに店を構えた。38年前のことだ。入居していたビルが競売されたため、現在は少し離れた場所に店を移している。
最初に店の名前を考えたとき、出身地にちなんだ名前か、花柳界時代の源氏名にするか悩んだ。「銀座で店を出すのだから、全国誰でも知ってて、覚えやすくて、世間の通りのいいものがいい」として「数寄屋橋」を選んだ。
開店から2、3年して、東宝の重役でもあった菊田さんが店を訪れた。数寄屋橋がなくなったことを残念がっていたのか、菊田さんは店の名を聞いて「数寄屋橋がここで生きていたのか」とたいへん喜んだ。園田さんは愛想半分で「今宵(こよい)もあなた待ちますという気持ちでつけました」。
菊田さんはさらに上機嫌になって色紙に「数寄屋橋 人の波 待つ人は来ぬ かなしさよ」としたためた。
「この時にこの名前にして良かったと思いました。『君の名は』の数寄屋橋を私の店で残し続けよう、私自身が『真知子』になって、お客さんである『春樹』を待ち続けようと思ったのです」。作詞作曲を手がける園田さんには「貴方(あなた)待ちます数寄屋橋」という曲もある。
数寄屋橋だけではない。真知子と春樹は、作品の舞台となった場所でも語り継がれている。
飢餓感が心に強く訴える
断崖(だんがい)絶壁に日本海の荒波が押し寄せる新潟・佐渡の尖閣(せんかく)湾。
映画「君の名は」第1部の最後の場面で、「すれ違っていた」真知子(岸恵子)と春樹(佐田啓二)がついに結ばれようとする。
離婚を決意した夫の子どもを宿した絶望から、尖閣湾の釣り橋から身を投げようとする真知子、そこに駆けつけた春樹。
春樹「僕は君を、もう、誰の手にも。そのつもりで、僕は君を迎えにきたんだ」
真知子「私、私どうしたらいいんでしょう。子どもが。子どもが」
ふたりは釣り橋の上で愛を確認するものの、おなかの中の子どものために、また別離を決意する。
春樹「君はやっぱり帰るべきかもしれない。浜口さん(夫)のところへ」「僕たちはどうしても忘れなきゃいけないんだ」
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釣り橋は、地元住民でつくる有限会社「尖閣湾揚島(あげしま)観光」が建設した。正式名称は遊仙橋。沖合に浮かぶ揚島を結ぶ、尖閣湾観光の目玉だった。映画の後、橋は「真知子橋」と呼ばれ、観光客が大勢訪れた。
社長を務めた浜辺竹蔵さん(81)は50年以上前のロケの様子を覚えている。「佐田啓二さんが高さ15メートルの揺れる釣り橋の上で何度も何度も撮り直しをする。佐田さんの役者根性には恐れ入ったね」
真知子橋はその後、鉄筋の橋として建て直され、現在は3代目が架かっている。しかし、尖閣湾揚島観光が運営する遊園の観光客は近年減り続け、昨年は12万人。ピークだった92年ごろの4分の1になった。
遊園の支配人坂下清さん(48)は「あの有名な『君の名は』の雰囲気を再現するため、資金さえ調達できれば、元の木造の釣り橋の真知子橋に戻したい」と話す。
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温泉の湯気が立ち上る長崎・雲仙。離婚調停に疲れた真知子は雲仙のホテルで従業員として働き始める。
雲仙では、硫黄臭がたちこめる「お糸地獄」や、霧氷の織りなす普賢(ふげん)岳などで撮影が行われた。
54年のロケ当時、雲仙にはたくさんの見物客が押し寄せ、「真知子漬け」「真知子タオル」「君の名は人形」などの土産物もできて、「君の名は」一色になった。
雲仙市小浜町に住む福田厚さん(83)は地元消防団の一員として、雑踏整理にあたった。「とにかくすごい人でね。あんなにたくさんの観光客は後にも先にも見たことがない」
撮影が行われたお糸地獄近くには現在、ロケを記念した「真知子岩」があり、菊田一夫さんの言葉が刻まれている。当時大流行した「真知子巻き」をして写真に納まる人も多い。
金子スマ子さん(75)は、真知子の就職先として撮影された雲仙観光ホテルの客室係をしていた。「佐田さんにお茶を持っていったら『地獄ってどれぐらい熱いのですか』と聞かれました。私の一生の宝物です」
雲仙観光ホテルにとっても「君の名は」は貴重な財産だ。
支配人の旭達雄さん(48)は年配の宿泊客には決まって「有名な『君の名は』の舞台になったのがこのホテルで、主人公の真知子さんはここで働いていたのですよ。もちろん、映画の中での話ですが」と紹介する。「皆さん、この作品には何がしかの思いをもっているのでしょうね。懐かしそうに思い出を語ってくれますよ」
同じように撮影が行われた北海道美幌町にも、記念して植えられた「まち子松」(現在は2代目)がJR美幌駅前にある。
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それにしても、なぜ、すれ違いは人を魅了するのか。
91年にNHK朝の連続テレビ小説「君の名は」の脚本を手がけた井沢満さん(60)はこう語る。
「すれ違いは恋愛のバリアの大きな要素。恋愛にはバリアがあればあるほど気持ちが盛り上がる作用がある。恋愛が成就し充実しているときよりも、飢餓感がかきたてられている方が人間の心に強く訴えていくのです」
真知子と春樹がすれ違ってから半世紀以上。携帯電話やメールなどの通信手段が格段に発達した今では、「すれ違いドラマ」を成立させることはほとんど不可能になった。
が、たとえ「男女のすれ違い」はなくなったとしても、忘れなくてはならない人を愛し続けることは今も昔も変わりはない。
「君の名は」のうたい文句は「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」だった。
その悲しさは時代を超える。
文・斉藤勝寿 写真・山村行志
(05/27)
〈ふたり〉
1945(昭和20)年5月24日空襲の夜、助け合った氏家真知子と後宮春樹。命の尊さをかみしめ、心を通わせたふたりは半年後に東京・数寄屋橋で再会を約束する。
しかし、11月24日、真知子は新潟・佐渡に向かう船上にいた。空襲で両親を失った真知子は佐渡の伯父角倉勘次の元に身を寄せることになったのだ。春樹は一人、数寄屋橋で来ることのない真知子を待つ。
真知子の浜口勝則との結婚・離婚、春樹の北海道行きなどの物語が展開。友人の石川綾の尽力で、ふたりは気持ちを確かめ合うも、すれ違ってなかなか結ばれない。
もともとはNHKラジオドラマ。52年4月から2年間放送され、空前のブームを呼んだ。放送時間帯は銭湯の女湯がカラになったといわれる。真知子役が岸恵子さん、春樹役が佐田啓二さんの映画版は、53年から54年にかけて3部に分けて公開され、大ヒットした。岸さんがショールを頭に巻いた「真知子巻き」が流行した。