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愛の旅人

笑笑生「金瓶梅」
»〈ふたり〉へ潘金蓮と西門慶―中国山東省/江蘇省

 山東師範大学の杜貴晨(トゥ・クイチェン)教授(56)が初めて「金瓶梅(きんぺいばい)」を読んだのは80年代、33歳のころだった。一部を伏せ字にした省略本である。編集者を知っていたコネで、買うことができた。

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餅屋の2階の窓から通りを眺め、西門慶を待つ潘金蓮役の少女=山東省陽谷県の獅子楼旅遊城で

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かつての歓楽街を見すえる子猫=江蘇省淮安市の河下鎮で

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五蓮山の奇峰を見上げる村=山東省五蓮県丁家楼子村で

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 部数限定の完全本がその後に出たときは、大学で古典文学の講師をしていたので、購入の特別枠が与えられた。「値段が175元、当時の給料の3カ月分でした。別の人に権利を譲りました」という。現物を手に入れたのは、さらに数年後である。

 「金瓶梅」は露骨な性表現から「淫書(いんしょ)」の烙印(らくいん)を押され、中国では公の出版がずっと禁じられてきた。大学図書館の蔵書も、一定の地位以上の教官にしか貸し出しが認められなかった。

 毛沢東が「『金瓶梅』なくして『紅楼夢(こうろうむ)』なし。封建社会を学ぶのに役立つ」と評価したこともあって、50年代に通しナンバーつきで相当部数が刷られ、党や政府、軍の幹部に配られたことがある。そんな例外はあったものの、禁書であるのは現在も同じだ。

 どうしても読みたい人は、縁日へ出かけなければならない。記者は、山東省聊城(リャオチェン)市の古本市の屋台で見つけた。6冊組50元(1元=約14円)。値切ると30元になった。版元は香港。通しナンバーつきの残部が香港に売却されたといい、それから版が起こされたのか、複製版の大産地となっている。

 「その香港でも、映画作品は成人指定」と中国社会科学院の劉世徳(リウ・シートゥ)教授(73)。「20年代に出た英訳は発禁。フランスでも79年までは禁書。中国にも明文化された規制があるわけではない。でも、大っぴらには出せない。この小説の運命でしょうか」と笑う。

 読んではいけないといわれると、かえって読みたくなる。明代には一流の文学者や画家の間で筆写、回し読みされ、「後半が早く読みたい。どうすれば入手できるか」「出版すればもうかるだろうが、悪書を広めたと非難されるに違いない」といった手紙がやりとりされた。清代にはきわどい場面ばかりを集めた本が地下出版されている。

 記者が「金瓶梅」という小説の名を聞いたのは60年代。高校生だった。いま思えば、小野忍・千田九一両氏の優れた訳が、平凡社中国古典文学全集の一シリーズとして出たばかりのころ。書名は呪文のように同級生の間でささやかれ、耳にし、口にするだけで、妙なおののきにとらわれた。以来、もやもやした気分のまま、今日に至る。

 思い切って読んでみた。

 「新鮮だ。従来の古典小説とまるで違う。淫書なんかじゃない」――、門外漢の記者の感想ではない。冒頭の専門家、杜教授が最初に読んだときの叫びである。

 「人間関係の基本である男女の仲を中国文学で初めて正直に書いた。欲望に夢中になった人間の悲劇を書いた」

 杜教授はいま、大学院生に必ず「金瓶梅」を読むよう指導している。

「ごろつき」と「すべた」にも愛

 石畳の小路は幅3メートル余り。車が入ってこないのをいいことに、子猫が悠然と寝そべっていた。江蘇省淮安(ホアイアン)市の河下(ホーシャー)鎮は、運河に臨む波止場から南北に2キロ、2階屋がすき間なく並ぶ古びた村だ。「金瓶梅」が書かれた16世紀明代には、妓楼(ぎろう)が100軒以上ひしめく大歓楽街だった。「花巷(ホアシャン)」「白酒(パイチュウ)巷」という通りの名に昔をしのんでみる。

 「明清時代、淮安から官僚登用試験の科挙(かきょ)に合格した者が300人近く。うち55人が、この狭い村の出身でした。トップ合格の『状元(じょうげん)』も、ここから1人出ています」と市歴史文化研究会の花法栄(ホア・ファーロン)会長(62)はいう。

 遊女屋を支え英才を育てたのは、運河がもたらす経済力だった。北京と杭州を結ぶ大運河の要所で、水運を管理する役所が置かれ、巨大な関税を吸い上げていた。「金瓶梅」もまたそんな繁栄が背景にあって書かれた。作中、「河下」という地名がしきりに現れることから、淮安は、やはり運河で栄えた山東省臨清(リンチン)市とともに、小説の舞台の有力な候補とされている。

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 物語は時代を12世紀北宋末に設定しているが、実際は明代の大商人の暮らしぶりを描く。主人公・西門慶は織物や塩を運河で運んでは、大もうけし、もうけた金は、珍味を並べ立てた酒宴や遊女とのらんちき騒ぎ、他人の妻を寝取る策略に使われ、有力者への接待や袖の下に消えていった。

 飲み、食い、歌い、抱き、抱かれ、お互いを「ごろつき」「すべた」と呼び合いながら、徹底的に快楽を追求する男と女。延々とそんな描写が続くので、うんざりするかもしれない。善人がほとんど現れず、目の前が真っ暗になりもする。

 荒れ果てた日常の中でやみくもに交わされる性。だがその懸命な姿は痛々しくもあり、不思議なことにいとおしくさえ見える。

 西門慶が潘金蓮に大量の強精剤を飲まされて急死、金蓮もまた結局は武松に惨殺され、登場人物がほぼ全員、非業の死を遂げるに至って、えたいの知れない感動に襲われた。

 「これは淫書なんかじゃない」。記者もまた、杜貴晨教授と同じ声をあげていたのだった。「金瓶梅」が禁書に値するとすれば、登場人物に宿る虚無的な人生観、精神的な価値に対する不信感ゆえのような気がする。

 皇帝に忠誠、親に孝行、夫に貞淑といった南宋以来の厳格な道徳観が急速に崩壊し、人間の本性を認め、欲望を肯定的にとらえる思潮が、一挙に噴き出したのがこの時期だった。

 山東省の金瓶梅研究会会長でもある山東大学の王平(ワン・ピン)教授(57)によると、「官能的、情痴的な小説や歌、戯曲が次々と書かれ、僧と尼の情事を扱った劇まであった。中国思想史上、特筆される時代」とのこと。

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 山東省諸城(チューチェン)市から40キロほど南に、五蓮山(ウーリエンシャン)と総称される高さ700メートル足らずの岩山群がある。そのふもとに丁家楼子(ティンチアロウツ)村はある。100世帯あまり。道はまだ舗装されていない。16世紀の末から17世紀の初めにかけ、丁惟寧(ティン・ウェイニン)という失脚した元官僚が小さな家を建て、24年間の引退生活をここで送った。

 「笑笑生(シャオシャオション)」と名乗る作者の正体については、小説の舞台同様、論争が多く、70に及ぶ説がある。「決定的な証拠を挙げたものは一つもない」ともいわれる。丁惟寧は最も新しく登場した作者候補で、比較的説得力があると先の王教授らに評価されている。

 主唱者は、諸城市で長く地方史の編集に携わってきた張清吉(チャン・チンチー)さん(54)。カナダから届いた手紙がきっかけだった。丁惟寧の子孫だという人物が、「五蓮山の村に先祖をまつった祠(ほこら)があるはず。探してほしい」といってきたのだ。バスが通ってなかったので、歩きづめで村にたどりついた。20年も前のことだ。祠で見つけた詩文を解読、また世界中に散らばった一族からも資料が寄せられ、丁惟寧を作者と確信するようになった。

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 その村は、非常に寂しいところで、退職官吏が大自然を相手に心身の疲れを癒やすのには向いていても、「金瓶梅」のようなただれきった物語はとても書けないだろうと感じた。「いや、彼には4人も妻がいました。4人目の妻は、59歳のときめとり、相手は16歳でした」と張さん。

 その若妻が産んだ息子は、明から清への変わり目に「続金瓶梅」という小説を書き、新政権をあてこすって、たちまち発禁。急進的で大胆な人物を出す家系であるのは確かなようだ。

 新種の重い素粒子を発見、76年のノーベル物理学賞を受けた米国のサミュエル・ティン博士(70)は、中国名を丁肇中(ティン・チャオチョン)という。父親が五蓮山がある地方の出身で、丁惟寧の同族である。

文・穴吹史士 写真・白谷達也
(06/03)
〈ふたり〉

 蒸し餅屋の女房・潘金蓮(パン・チンリェン)と薬屋の西門慶(シーメン・チン)は密通を重ねたあげく、共謀して金蓮の亭主・武大(ウー・ター)を毒殺――というシーンから始まる悪党と淫婦(いんぷ)の物語。2人に限らず、登場人物は、そろって好色で食い意地が張り、加えて守銭奴。セックスと料理、金もうけ以外には興味がない。

 金蓮は西門慶の第5夫人に納まるが、そこへ李瓶児(リー・ピンアル)が第6夫人として乗り込んでくる。夫を自分の寝室に引き込もうと性の秘術が尽くされる。女たちの暗闘は、瓶児が産んだ跡取りの男児の殺人へと発展。題名は金蓮、瓶児、金蓮の小間使春梅(チュン・メイ)から1字ずつ取っている。

 もともと西門慶と潘金蓮の悪行は、先に現れた人気小説「水滸伝(すいこでん)」の一挿話として書かれた。そこでは、2人は武大の弟で虎を殴り殺した豪傑の武松(ウー・ソン)にすぐ惨殺される。3章で終わるその短い話をそっくり借用したうえ、2人をまんまと生き延びさせ、100章の大長編に仕立てた16世紀明代の奇書である。



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