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愛の旅人

「花より花らしく」
»〈ふたり〉へ三岸節子と好太郎―愛知・一宮/札幌

 美女と野獣――若き日の三岸(みぎし)夫妻の写真を見て、そんな感想を抱いては失礼が過ぎるだろう。しかしこのふたり、洋画家であるという一点を除けば、ことごとく対照的に見える。

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大正時代の毛織物工場が残る起(おこし)地区は節子の生まれ故郷。ふたりが若かったころ、訪れたという=愛知県一宮市で

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木曽川のかなた、伊吹山に夕日が沈む。ふたりはこの夕日を見たことがあっただろうか=一宮市で

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節子の代表的作品を収蔵する三岸節子記念美術館=一宮市で

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 大正末から昭和初期の洋画界に流星のようなきらめきを残した好太郎は、「変幻自在」を感じさせる天才肌。節子は夫と対比させて「努力の人」と自らを規定し、戦後フランスに渡って画業をみがき、第一人者となった。

 好太郎は31歳で夭折(ようせつ)した。節子は描き続け94歳で天寿を全うし、棺(ひつぎ)に入るときも手に絵の具がついていた。

 ふたりの名を冠した美術館のたたずまいも、違いが際だって見える。

 札幌市。白を基調とした好太郎の美術館は、春から初夏にかけて、黄緑色の木々に囲まれ明るさが映える。館内の作品で最も人気が高い「オーケストラ」(1933年)は、ひっかき線の技法も駆使して音楽を軽やかに絵画化し、好太郎の面目躍如といえる。

 愛知県一宮市。瓦屋根の家々に囲まれた節子の美術館は、梅雨の雨の中にあっても、れんが色が強い自己主張を感じさせる。とりわけ多くの来館者を引きつけるのは、初期の「自画像」(25年)と、最晩年の「さいたさいたさくらがさいた」(98年)。独特の強い光彩を放って迫ってくる。

 異なる個性を持つ芸術家同士のカップルは、第三者から見れば興味深いが、当事者となると話は違ってくる。

 節子は随筆集「花より花らしく」の中で、好太郎の画才や天真らんまんな性格を愛し、惜しみつつも、夫としては「わがままで横着でエゴイスト、暴君だ」と断じた。好太郎の結婚後の女性関係についての記述も「とりかえ引きかえ、常に新しい女から女へと……」といった調子で容赦がない。

 近代性と野性が同居する街、札幌に育った好太郎には、独特の人なつこさや愛敬があったようだ。短い生涯を彩る女性遍歴の逸話は数多い。

 尾張の裕福な地主の娘として育った節子は、勝ち気で自尊心が強かった。好太郎のそうした行状は許し難かったと思われる。

 それにも増して、画壇で認められ始めていながら、3人の子を持つ嫁として、絵を描く時間がわずかしか取れないつらさ。好太郎はその気持ちをどこまで理解していたのか、弁解とも予言ともつかない言葉を残したという。

 「節子、おれが死んだら、恋をしろよ。恋をしなきゃ、いい絵はかけないぞ」

 結婚10年後の34年、好太郎は旅先の名古屋で胃潰瘍(かいよう)がもとで急死する。

 東京で「コウタロウシス」の電報を受け取った節子の心中は、悲しみや将来の不安より、「ああ、これで絵を描いて生きていける」という解放感が勝っていたという。

 好太郎はしかし、世を去ってなお節子の軌跡に強い影響を及ぼし続ける。

天才と反骨が結ばれた

 多くの洋画家と同じく、生前の三岸好太郎はフランス行きを熱望し、長男に「巴里(ぱり)」と名付けた。

 節子が好太郎の死亡届を出す際に、長男の出生届が出ていないことを知って驚いた。すでに3歳。苦労して手続きし、好太郎の好きな色にちなみ「黄太郎(こうたろう)」という名前にした。

 両親と同じく洋画家になった黄太郎さん(75)=神奈川県大磯町在住=は「おやじが届け忘れていたって話になってるけど、本当はパリという名前が恥ずかしくて、役所に出しそびれたんじゃないかな」と笑う。

 節子は1954年、49歳でフランスに渡り、ヨーロッパを旅した。この前年、洋画家・菅野圭介との「別居結婚」を解消している。洋行には心機一転の意味もあったろう。

 亡夫が焦がれ続けた渡仏を果たした節子は、パリの景色を見て涙を流した。留学生として先に渡仏し、母を迎えた黄太郎さんはそう振り返る。もっとも、節子は「もしお父さんがパリに来たら、夜の街で遊んでばかりで大変だろうね」とも語っていたというが。

♪  ♪  ♪

 「帰りの船が沖縄に近づいたとき、ああまたあの水蒸気の国に帰るのか、と思いました」

 55年に帰国した節子は、産経新聞の美術記者福田定一、のちの作家司馬遼太郎と会ってそう述べた。司馬は後年、「このひと(節子)の色彩がみごとに乾いて発色していることを思いあわせ、さまざまなことを連想した」と書いた。

 日本の山河が最高の美しさを見せるのは雨上がり、と紀行作家の宮脇俊三が指摘している。日本人の心性に根ざした美の光景は、湿っぽい幽遠さであり、靄(もや)であり、日本の代表的な絵画は今も雪舟の山水図とされる。

 こうした「水蒸気の国」の伝統に対する反骨が、節子の基調になっている。名古屋の女学校に進んだころは文学少女で、親は医師になることを期待した。ところが急に絵画に目覚め、洋画家になると言い出した。驚いた親は「日本画なら許す」と妥協したが、節子は耳を貸さず、食を断ってまで説き伏せ、東京の女子美術学校に進んだ。

♪  ♪  ♪

 一方、好太郎にとって、洋画家は「天職」に見える。生前を知る人はほとんど見あたらないが、「いつも楽しそうに、スラスラと描く人だった」という言い伝えがあちこちに残る。

 北海道の開拓農村やポプラ並木の景色を描いて成長したことも、洋画への道を自然にしたようだ。北海道には他の日本と異質の「色」がある、と黄太郎さんはいう。ヨーロッパのように「油絵で描ける色」なのだという。

 67年、節子は戦後も収集してきた好太郎の作品200点以上を一家で北海道に寄贈し、「小さな宝石箱のような美術館」建設の希望が添えられた。

 曲折を経て83年、好太郎の個人美術館が現在地に新築・開館した。節子の熱意がなければ、好太郎の世間的な知名度は「三岸節子の若い頃に死んだ夫も、なかなか才能のある絵描きだったらしい」という程度だったかもしれない。

 あの世で会えたとして、夫婦はどんな話をしただろうか。黄太郎さんは「おやじは『節子はすごい、おれにはまねできないよ』とほめたでしょう」と語る。ただしそれは人生全体についての評価で、絵は別だそうだ。

 「おやじの仕事から見れば、おふくろの仕事はまだまだじゃないかな。未完成ですが、おやじの絵はうまいですよ」

 昨年公開された節子の日記は、様々な心境を明らかにした。73年の記述に「『好太郎と私とは異質の個性のため余り影響がない』と書かれたがとんでもない、大変な遺産をもらっている。発想の点でも技術の点でも」「ただ好太郎は頭がさえて、いつも目が精神がはっきり覚めていた。私はその点、まことにノロマである」とある。

♪  ♪  ♪

 だがそもそも、なぜ好太郎と結ばれたのかは、謎だ。節子のおいで、美術館に近い頓聴寺の住職、鵜飼哲明さん(73)は「節子さんは面食いですよ。いい男を見ると、あの人いいわね、とすぐ口にしました。しかし、好太郎さんは、お義理にも好男子とは……」と苦笑する。

 黄太郎さんの息子で、東京・銀座で画廊を経営する三岸太郎さん(45)は、祖父母のロマンスを「田舎のお嬢さん育ちが東京に来て、初めて貧乏暮らしの画家を見て衝撃を受け、崇高なものと感じて引きつけられたのだろう」と解釈する。

 89年、節子はインタビューに答えて語っている。

 「来世で結婚するんならまた三岸ですよ。悪い男ですが」

文・及川智洋 写真・古沢孝樹
(06/17)
〈ふたり〉

 三岸好太郎は札幌生まれで、異父兄が「新選組始末記」「父子鷹(おやこだか)」などで知られる小説家の子母沢寛(しもざわ・かん)。旧制札幌第一中学卒業後、上京して1923年に春陽会展で「檸檬(れもん)持てる少女」が入選し、注目を受ける。人物、静物、風景から抽象画、前衛画に進み、幅広い画風で知られた。

 節子は愛知県起(おこし)町、現在の一宮市で生まれ、上京して22年に女子美術学校に入学。24年に結婚後も春陽会展で入選するなど注目される。その後、ふたりは独立美術協会を中心に活動し、好太郎は代表作「蝶(ちょう)と貝殻」を発表するなど活躍中の34年に病死。節子は戦後、54年に渡仏、欧州を旅して翌年帰国、68年に再び渡仏してカーニュ、ベロンで暮らす。晩年は神奈川県大磯町を拠点に画業を続け、90年に朝日賞受賞、94年に女性洋画家として初の文化功労者に選ばれた。



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