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愛の旅人

ハイラル通信
»〈ふたり〉へ香月泰男と家族―山口・三隅

 画家は戦地から、来る日も来る日も妻子にはがきを送り続けた。家族を気遣う文に水彩画を添えて――。

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香月泰男の愛した久原山(左)。朝もやの中を行く列車の音に、カエルの合唱がかき消された=山口県長門市三隅で

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自宅台所に香月が3年越しで描いた壁画が残る。「色あせてしまって」と婦美子さん

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町には香月の小彫刻「おもちゃ」の複製が=いずれも山口県長門市で

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 「俺(おれ)がそだった、俺をそだててくれた、あの三隅(みすみ)の山、空、人々。子供達も同じ様にそだててやり度(た)くも思ふ。子供達の姿が見度く思ふ」

 31歳で召集令状を受けた香月(かづき)泰男は1943(昭和18)年4月から2年余り、旧満州(中国東北部)のハイラルに軍隊の営繕係として駐屯した。その間、山口県で暮らす妻、婦美子さんと3人の幼子に、絵を描いた軍事郵便はがきを毎日のように出し続けた。家族や故郷への思い、大陸の風景、そして絵のこと……。訓練で凍傷寸前になったりしても自分のことは「元気」と書き送った。検閲を経て妻のもとに届いたのは360通。婦美子さんは全通を大切に保管していた。「ハイラル通信」と呼ばれる。

 香月が強い望郷の念を寄せた三隅町(現長門市)は、日本海に臨む小さな町だ。現在89歳の婦美子さんは今もそこで、香月と共に過ごした家に住む。

 香月は幼少期に父母と離別した。父は遊郭通いなど放蕩(ほうとう)の末に朝鮮半島で死去。母も離縁の形で家を去った。香月を育てたのは祖父母と叔父だった。

 「父なく、母なく兄弟なく育たなければならなかった私は、いつも孤独だった。オレは誰にも必要な存在じゃないんだ。いなくたって誰もどうとも思いやしない。死んでやろうかな。そんなことまで考えるときがあった」

 香月は後にこう振り返っている。

 26歳のとき婦美子さんと結婚。妻のおなかが大きくなると「早う生まれ」と言いながら、座布団を丸めて抱え、子守のまねをした。結婚の翌年から年子で長男、長女、次女に恵まれた。

 「主人は、恵まれない家庭に育ったから、家族ができてうれしかったんだと思う。だから、ものすごく大切にしてくれた」と婦美子さんは話す。

 香月が敗戦後1年半の過酷なシベリア抑留を経て三隅に帰ったのは、47年5月のこと。それから62歳で亡くなるまで郷里に住み、戦争・抑留体験を極限にまで昇華させた「シベリア・シリーズ」を描き続ける一方、郷里の風景や植物、そして妻や子、孫など身辺をモチーフにした多数の絵を残した。

 〈私〉の地球――。三隅を描いた絵を、香月はそう名付けた。

 自宅裏の久原(くばら)山(204メートル)はどこにでもあるような小山。自宅前を流れる三隅川もささやかな流れだ。香月は川の橋の上から「地球」を見つめた。

 自宅の庭には今も、香月がシベリアから食料の豆を持ち帰って発芽させた「サン・ジュアンの木」がある。

 香月はいつも妻に言っていた。

 「自分が死んだらサン・ジュアンの木の下に骨を埋めてくれ。そこで木になって、お前たちを見守るから」

 自宅で亡くなった香月の遺灰の一部は、その木の下で土にかえっている。

自宅台所に香月が3年越しで描いた壁画が残る。「色あせてしまって」と婦美子さん

「わしはいらん者じゃった」

 「慶子はまだ語りませぬか」「遺言の中にある慶子の言葉のことに関する処(ところ)を消してくれ。気にかかる」

 香月泰男が戦地から妻子に出し続けた「ハイラル通信」で一番気にしていたのは長女の慶子さんのことだった。

 召集時に2歳だった長女は、栄養不足からか成長の遅れがあったという。

 「遺言の中にある……」の内容は不明だが、出征前に香月が妻の婦美子さんに残した遺言書で、長女のことに触れていたのだろう。

 「慶子も少々おしゃべりが出来るらしい。うれしく思ふ」と喜んだかと思うと、「慶子の会話はまだ駄目かな。もうすぐ六つになるのだが」と落ち込んだりしている。

 後に慶子さんは結婚して東京に行った。だが、女児を産んだ後、重い病を得て、香月夫妻が暮らす郷里の山口県・三隅に戻る。71年11月に31歳の若さで亡くなると、ワイン好きだった香月の酒量が一段と増えた。

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 「わしはいらん者じゃった」

 婦美子さんは、酔ったときの香月の口癖が今も耳から離れないという。

 「主人には子どもの頃の孤独感が一生つきまとっていたのでしょう」。だから寂しがりやで、妻が外出するのも嫌がった。「私が家の中で掃除や洗濯をしてごそごそしていれば、安心してずっと絵を描いていた」と話す。

 香月のアトリエにはストーブがあった。冬場は家族みんながその周りに集まった。次男の理樹(みちき)さん(58)は「そこで絵を描いている父は、本当にうれしそうだった」と振り返る。

 長男の直樹さん(67)や次女の敞子(ひさこ)さん(64)に子どもができると、香月は多数の「親子像」を描いた。父親が赤子を抱き上げていたり、母親が駄々っ子をあやしていたり。絵の中の母親は婦美子さんに、父親は香月に見える。

 「過剰とも異常とも思われるほどの家族への執着」。香月の画業に詳しい山口県立美術館の安井雄一郎・副館長(57)はこう表現し、そこに香月の特徴である「『私』の徹底」を見る。

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 4年以上にわたる軍隊・抑留生活で香月が決して手放さなかったものが三つある。生き別れた母親からもらった絵の具箱とセーター、そして自分たち夫婦の写真を入れたお守りだ。

 極寒のシベリア、セーヤ収容所では約250人のうち約30人が死んだ。香月は「あの寒さ、あの疲労、あの絶望。これだけはいくらことばを積み重ねても、体験しない人には決してわかってもらえないだろう」と後に語る。

 一方で香月は「シベリヤで私は真に絵を描くことを学んだ」と言った。

 抑留生活でいつも夢に見た三隅。決して楽しい思い出ばかりではない。出征前には東京に出ようと考えたこともあった。だが、「夢の中にくり返しよみがえる故郷」以外に、画家として香月が暮らすべき土地はなかった。

 「(自宅前の)橋から500メートルの範囲があれば、一生描いても描き尽くせないほどの画題がある」。香月の教え子で、今年3月まで香月泰男美術館長を務めた坂倉秀典さん(74)は、香月のこの言葉をよく覚えている。

 69年に香月は、お守りの夫婦の写真を題材に「護」という作品を完成させた。古い写真を拡大して写し取り、画面のほぼ中央に置いた絵だ。「そっくり写したつもりだが、妻の顔は実物よりはるかに美人に出来上がっていた。長い間苦労をかけた妻への、恩がえしの心が、無意識のうちに働いたに違いない」と香月は自作を解説している。

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 同年、評論家の立花隆さん(66)は香月から抑留体験などを聞き書きした。70年に香月著として出版された「私のシベリヤ」だ。04年に出た立花著「シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界」(文芸春秋)にも収められた。

 立花さんは連日午後に香月の自宅に出向いた。すると香月は「おーい、母さん」と妻を呼び、一升瓶ワインを持って来させた。10日間近く酒杯を重ねながら聞き取りを続けたという。

 香月は当時、心臓発作を起こすようになっていた。「飲ませると体が心配。でも飲ませないとかわいそう」と婦美子さんは複雑な心境だった。

 そして71年晩秋の長女の死。香月は酔いに沈むようになる。

 74年3月7日も香月は酒を飲んで帰ってきた。寝る前に、婦美子さんにまた「わしはいらん者じゃった」と話しかけ、「お前は子どもたちが何とかしてくれるよ」とつぶやいた。

 翌朝、香月は発作を起こし、妻が見守るなか、息を引き取った。

 アトリエの画架にはシベリア・シリーズの大作が、壁には郷里を描いた2作が掛かっていた。穏やかな画調の「雪の朝」には、自宅裏の久原山とふもとの集落が描かれていた。

文・神谷裕司 写真・山本正樹
(07/01)
〈ふたり〉

 香月泰男は6、7歳のころ、黄金色の日差しに輝くセンダンを見て「絵描きになろう」と決心したという。東京美術学校(現東京芸大)に進み、1934年、国画会展に初入選した。北海道で美術教師をした後、下関高等女学校に赴任。38年、同校卒の婦美子さんと見合い結婚した。結婚前に婦美子さんが「芸術家は品行が悪いから嫌い」と言うと、香月は「嫌いなら絵をやめてもいい」と答えた。だが結婚翌日から何くわぬ顔で絵を描いていたという。こうした思い出を婦美子さんは「夫の右手」(求龍堂)にまとめた。

 香月は復員後も美術教師として生計を立てた。長門市の大津高校に十数年勤めたあと60年に退職し、専業の画家に。独自の深い「黒」を木炭から生み出した。(写真は60年代後半の香月夫妻と、43年12月ごろのハイラル通信。「わが家の記念写真」と書き添えてある)



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