トップ 特集 テーマで行く旅 海外旅行 国内旅行 特選 海外出張

愛の旅人

「キジバトの記」
»〈ふたり〉へ上野英信と晴子―福岡・筑豊

 筑豊よ/日本を根底から/変革する、エネルギーの/ルツボであれ/火床であれ     上野英信

写真

「筑豊富士」とも言われる忠隈のボタ山に夕日が沈む。炭鉱の栄光と悲惨を表すように、空が赤く燃えた=福岡県飯塚市で

写真

満々と水をたたえる木月池。周辺にも炭鉱が点在した=福岡県鞍手町で

写真

上野朱さんと歩いた山中に、竹やぶに埋もれた炭鉱の遺構があった=福岡県鞍手町で

図

  

 87年9月11日、小さなメモ帳に鉛筆でしたためた5行のメッセージが、九州の中小炭鉱から日本を見据え続けた作家の絶筆となった。ガリ版切りで鍛えた独特のゴシック文字はまだしっかりしているが、署名の末尾「信」の最後の画「口」が大きくゆがんでいる。

 2カ月後の11月21日、上野英信は福岡県鞍手(くらて)町の病院で息を引き取った。

 筑豊炭田の北西の隅、鞍手町新延六反田(にのぶろくたんだ)。大社で有名な宗像(むなかた)市から東へ、小さな峠を越えた谷間が遠賀(おんが)川の平野に向かって開ける一角に、英信は執筆の拠点「筑豊文庫」を築いた。

 谷には60年代まで中小の炭鉱がひしめいていた。その一つ、労働者と家族の生き血を搾る「圧制ヤマ」と恐れられた新目尾(しんしゃかのお)炭鉱の坑口が今も残ると聞いた。深い竹やぶに覆われた斜面を小一時間登り下りしたが、見つけ出すことはかなわなかった。一緒に探してくれた英信の長男朱(あかし)さん(49)が、しきりに気の毒がってくれた。

 「まあ、長崎の龍踊(じゃおどり)みたい!」

 壁も床もなくゆがんで波打つ屋根を頼りない柱がかろうじて支える。新目尾炭鉱の鉱員住宅を見たとき、英信の妻晴子は笑った。三十余年前に建てられ、61年の閉山後はうち捨てられていたこの廃屋に、一家3人が移り住んだのは64年3月。翌年1月、英信は筑豊文庫の看板を誇らしげに掲げる。

 計理士だった父親の死去によって没落したとはいえ、福岡随一の繁華街・天神で不自由のない少女時代を過ごした晴子にとって、筑豊の廃鉱に住むのは容易な覚悟ではなかっただろう。英信でさえ「幾分(いくぶん)かのためらいと不安」を覚えながら、話をもちかけたほどだ。だが、晴子は「はじめて親子三人が誰に気兼ねもなく暮らせるようになった」と喜んだ。実はこのころ、家計はどん底だった。母と子は晴子の実家に暮らし、英信とは別居していた。

 ところが、水入らずの生活は長くは続かない。筑豊文庫はまもなく「集会所と図書館と食堂と宿屋と、時には駆け込み寺」も兼ねて深夜まで人声の絶えることがなくなった。晴子は「先生の奥さん」として台所を切り盛りし、来客の接待に毎日追われた。訪れた人は誰もが手料理に感心し、控えめな物腰に強い印象を残して帰る。

 そんな晴子を、英信は子どものようなわがままで振り回した。どうかすると、客の眼前で晴子に説教を始めた。

 若いころの晴子は、短歌に親しんでいた。結婚直後、夫に文学を禁じられた。「私は従わざるを得なかった」

 しかし英信の没後、晴子は再び筆を執る。死後、「キジバトの記」(海鳥社)として刊行された手記に、晴子は英信のことを「かわいそうな人」とつづった。割烹着(かっぽうぎ)の下に隠された闇は、どれほど深かったのだろうか。

足もとにわが寄り得ぬと

 木月(きづき)池は広さが約11万平方メートル。ヘラブナ釣りの名所だそうだ。地下の坑道が陥没してできたと釣り人が教えてくれたが、鞍手町役場は他の陥没田に客土した土取りの跡だと説明する。

 いずれにしろ炭鉱の古傷がなお残る町の、筑豊文庫の跡地に立つ自宅で、上野朱さんが四角い缶を封印していた粘着テープを静かにはがした。

 「母が亡くなってから、まだ開けたことがないんです」

 中には上野英信が結婚前、晴子にあてた手紙が封筒ごと束ねられていた。最も古い日付は55年9月25日。労組の教宣ビラのような字体で、晴子のことを初めて夢に見た、とある。この年、英信は原爆症の療養のため故郷に身を寄せていたが、年末に筑豊に戻るまでの3カ月間に8通と、こまめに福岡の晴子に便りをしたためている。

♪  ♪  ♪

 晴子の回想によると、福岡で共産党系の文学講座に講師として来た英信を見たのが最初だったらしい。別の講演会でも壇上の「背の高い菜っ葉服」の英信に強い印象を受けたりしているが、ふたりの距離を一気に縮めたのはこの手紙のやりとりからだった。

 英信は晴子に短歌を見せてほしいと頼み、続く手紙で読ませてもらった礼を伝えている。批評は控えめだが、好感をもった様子が読み取れる。

 一方、晴子は、

 君が身に原爆症出でしとききしいまわが手足より力抜けゆく

 と詠んでいる。所属していた同人誌「形成」55年12月号に掲載された。

 「おそらく晴子さんの最後の作品だと思います。いま好きな人があるのよと言うから、どんな人と聞くと、まだ芽も何も出ていないからって。でも、この人だって思っていたみたいです」

 短歌仲間であり、晴子と親交が深かった久保田美津子さん(74)が振り返る。晴子は久保田さんに、英信の初期の作品、ガリ版刷りの「せんぷりせんじが笑った!」を見せ、「この人は普通じゃない」と話したともいう。同じ号に次の歌も載っている。

 足もとにわが寄り得ぬとせし人が病床より書きし愛(かな)しき手紙

 福岡市の森一作さん(85)が自宅で開いていた学習会に、晴子は誘われて通っていた。

 「利発で敏感な印象でした。アカシアの丘が米軍基地に変わってしまったと嘆く歌を作るなど、当時の若い人らしい問題意識をもっていました」

 森さん宅には時折、英信も顔を見せていた。晴子が店番をしていた実家のたばこ店にも、英信は足しげく通っていた。過去に一度、結婚に破れ、その後も周囲の男性に物足りなさを感じていたらしい晴子の目に、英信は自分を引き上げてくれる導き手として映ったのではなかったか。

 ところが、新生活に希望を膨らませていた晴子に、英信は「文学の毒が君の総身に回っている。短歌なんかやめてしまいなさい」と厳命する。

 ――彼は私を自分の好む鋳型に嵌(は)めこもうとして、私が内面に保ってきたもののすべてを否定することから始めた(略)教育ではなく調教である。

 後に晴子は、そう手記に書く。

♪  ♪  ♪

 福岡市・六本松。九州大のキャンパス前を走る道路から細い坂道を上ると、木立に囲まれた住宅街がひっそりとたたずむ。「針の落ちる音でもわかる」と英信が喜んだ静寂が今も残る。

 晴子と英信は59年夏、ここに移り住み、英信は出世作となった「追われゆく坑夫たち」の執筆に心血を注いだ。

 「細長い狭い書斎に大きな体を折るようにして座り、いつも何かを書いていました。毎晩遅くまで書斎の明かりが消えることはなかった」

 英信と旧満州・建国大の同級生で隣家に住んでいた大内建次郎さん(83)が回想する。晴子は、大内家と上野家の幼い子たちが夫の仕事を邪魔しないようにと、いつも大わらわだった。家計も苦しい生活の中で、晴子は神経をすり減らして夫に従い、記録作家の誕生を見届ける産婆の役を務めあげる。

 「晴子さんは人をきちんと受け止めて、その人らしく育てようとなさる。英信さんを尊敬していらしたから、育てたいとお考えになったのね」

 晴子と英信が六本松に移る直前、筑豊の一角、中間市でふたりと仕事と暮らしをともにしたことのある作家、森崎和江さん(79)はそう晴子を評する。

♪  ♪  ♪

 それにしてもなぜ英信は妻の文学を禁じ、晴子はそれを受け入れたのか。

 亡くなる直前、晴子は朱さんに「もう一度、お父さんと一緒になりたい」と語ったという。朱さんが言った。

 「カッコをつけたわけでもなく、本音だったのでしょう。今度一緒になったら、うまくやってやる、文句なんて言わせない、と」

文・今田幸伸 写真・内藤久雄
(07/08)
〈ふたり〉

 山口県阿知須(あじす)町(現山口市)に生まれた上野英信(本名・鋭之進)は、北九州市・黒崎で育つ。旧満州の建国大に在学中、学徒召集に応じ、広島で被爆。戦後、京都大を中退し、故郷を出奔。筑豊や長崎で坑夫となる。労働者の文化運動に取り組むが解雇され、詩人の谷川雁や森崎和江らと「サークル村」を創刊。ほどなく中小炭鉱のルポを中心に執筆に専念。坑夫たちの足跡を追って中南米や沖縄にも関心を広げた。「上野英信集」(全5巻、径(こみち)書房)がある。

 晴子(旧姓・畑)は福岡県久留米市に生まれ、福岡市で育った。56年2月、英信と結婚。その死後も鞍手町で半生を送り、自ら選んだホスピスで静かに最期を迎えた。

 英信は当初「ひでのぶ」と読ませたが、晴子は後年、外の人に夫のことを語るときは「えいしん」を用い、英信本人も晩年は「どっちでもいいのだ」と言っていたそうだ。



ここからツアー検索です

ツアー検索

情報提供元 BBI
ツアー検索終わり ここから広告です
広告終わり

特集記事

中国特集へ
ドイツ年特集へ
∧このページのトップに戻る
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。 Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.