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愛の旅人

「無法松の一生」
»〈ふたり〉へ富島松五郎と吉岡大尉夫人―福岡・小倉

 「奥さん、俺(おれ)は淋(さび)しうてつらい」

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小倉の夏の風物詩、祇園太鼓は無法松で全国的に有名になった。競演会では見事なバチさばきが披露される=北九州市小倉北区で

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小倉近くの門司港では観光名所巡りに人力車が活躍する。この車の名は「無法松号

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松五郎が住んでいた小倉の古船場町周辺にはひっそりと古い建物が残る

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 無法松は、たった一度、こう恋情をもらした。

 手の届かぬ花に恋する「身分違いの恋」ほど、切なくつらいことはない。時は明治後期から大正。身分という言葉が死語となり、不倫や浮気が大っぴらに語られるようになった今ではない。身分違いの恋は御法度だった。

 「小倉の無頼の徒の巣」だった古船場(ふるせんば)の木賃宿で暮らしていた33歳の無法松。「歌麿式美人絵から抜け出たような」と評判の吉岡陸軍大尉夫人、良子に一目ぼれしたのは、たまたまけがをした敏雄少年を家に送り届けたのがきっかけだった。それから、「息苦しい、やるせない思慕の情」に絡め取られた日々を送る。

 大尉の急死後も、それまで以上に親密で、不思議な交際が続く。「直情径行の無法松が恋慕の情を深く秘めていた」ことを誰も気がつかなかった。

 洋の東西を問わず、男が尽くす純愛物語は数少ない。まして、軍国主義全盛の戦前の日本では、だ。

 無法松のモデル探しはいまも盛んだが、原作者・岩下俊作の三男で元NHK記者の八田●(たかし、●は「日かんむり」の下に、左は「工」、右は「卩」)さん(66)は、「フランスの小説シラノ・ド・ベルジュラックの日本版だと思いますよ」と言う。

 鼻の大きなシラノはいとこのロクサーヌを愛しているが、彼女はハンサムなクリスチャンに夢中だ。シラノも無法松も、ともに恋の相手は理想の女性。ただ尽くすだけの対象だ。

 無法松が全国区になったのは、阪東妻三郎主演で1943(昭和18)年に映画化されてから。社会の底辺層と見なされていた車引きが、エリート軍人の未亡人に尽くす。分不相応な純愛ストーリーに国民は拍手喝采した。

 当時は検閲があった。戦死者が増え続け、軍人の未亡人も多くなっていた。国民の手本となるべき軍人の未亡人に、車引きが恋情を伝える。こんなシーンは真っ先にカットされた。

 だが、戦争で死ぬことが正しいとされた時代に、美しく弱いものへの献身の大切さを訴えたこの物語。軍国映画に飽きた国民は競って、映画館に足を運んだ。

 車夫仲間が次々と身を固めても、木賃宿暮らしを続けた無法松。酒ともばくちともいつの間にか縁を切った。

 再び酒浸りになったのは、「淋しい」と言って良子の手をほんの一瞬だけ握りしめ、思いを伝えようとしてから。その後は吉岡家を一度も訪れることなく、飲んだくれの日々を過ごし、約1年後、野垂れ死にする。

 三畳間の宿に残された遺品は柳行李(こうり)一つだけ。中に、良子と敏雄名義の貯金通帳2冊が入っていた。良子は通帳を顔に当てて号泣し、無法松の亡きがらに泣き崩れた。

 「死んで初めて吉岡夫人の手に抱かれ……」。淋しうてつらかった男の48年の人生はこうして終わった。

軍国の世に純愛の明かり

 小倉の夏は今年も熱く、燃えていた。「無法松の一生」ハイライトの小倉祇園太鼓は、7月14日から3日間続いた。

 JR小倉駅前から小倉城、八坂神社へ通じる繁華街のいたるところで、「ヤッサヤレヤレッ」というかけ声とともに、ドンドコ、ドンドコという太鼓やジャンガラというすり鉦(がね)の甲高い音が響き渡る。

 ざっと100組の山車(だし)が参加。たくましい男の集団に交じり、女性や子どもだけのグループと様々な顔ぶれだが、威勢の良さではみな負けない。

 男も女もなぜか、無法松と同じ、人力車夫のような法被に腹掛け、ねじり鉢巻きが定番だ。和太鼓の演奏は重労働。激しい動きには、無法松スタイルがぴったりなのかもしれない。

 今年は無法松の生みの親、岩下俊作の生誕100年だ。太鼓もひときわよく響く気がするのも無理はない。

♪  ♪  ♪

 岩下が「富島松五郎伝」を書き上げたのは1938(昭和13)年。日中戦争が激化し、国内は軍国主義に染まり始めていた。小説も映画も、国威発揚のための有力な手段とされたころ。軟弱ともされかねない純愛物語が第一作となった。

 岩下は、八幡製鉄所(現新日鉄)の職工として働くかたわら、地元の同人誌を舞台に、「詩作に没頭」の日々を過ごした。

 同人誌仲間の火野葦平(あしへい)が「糞尿譚(ふんにょうたん)」で芥川賞を受け、発奮した。「負けるもんか」。夕方まで働いて帰宅、一眠りした後、夜中に起き出して原稿書きに没頭する毎日が続いた。

 岩下の父親は無法松と同じ車夫で、車夫のたまり場である「たて場」を開いていた。「無法松」は周りにたくさんいた。

 「富島松五郎伝」は直木賞の候補になったものの、受賞できなかった。だが、「無法松の一生」の映画化で国民的な人気を博し、軍国主義一辺倒の世に、人の心に訴える明かりを灯(とも)した。

 戦後になっても、何度も舞台化、映画化された。義理人情に厚い日本男児の典型として描かれ、見る人に大きな感動を与えた。

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 「秘めたる恋」はこのごろでは、めっきりすたれた。純情な無法松の影は薄くなったが、別の形で息を吹き返している。

 いま和太鼓ブームである。「無法松がその牽引(けんいん)力となったのは間違いない」と言うのは、浅野太鼓文化研究所(石川県白山市)理事長の浅野昭利さん(59)だ

 無法松というと、映画のクライマックスで、片肌脱ぎの松五郎が派手なバチさばきで大太鼓を打ちならす「勇み駒」や「暴れ打ち」の曲打ちが知られる。原作でも「この太鼓を打つのは、小倉中には一人もおらんと思うていたのに」と古老を感嘆させている。

 実際の小倉祇園太鼓は比較的単調だ。太鼓の両面に打ち手が1人ずつ、リード役のジャンガラの3人で規則正しいリズムを刻むのが基本。「勇み駒」も「暴れ打ち」もない。

 だが、大ヒットした村田英雄の歌謡曲「無法松の一生」にも「勇駒」や「あばれうち」がうたい込まれており、「無法松流」のかっこよさが和太鼓奏者を引きつけた。

 浅野さんによると、和太鼓が本格的な舞台芸能、音楽として認められるようになったのは、69年に新潟県・佐渡で結成された和太鼓集団「鬼太鼓座(おんでこざ)」のメンバーが75年、米ボストンマラソンを完走後、そのまま舞台出演してから。リーダーだった故・田耕(でん・たがやす)さんは、「走ることと音楽は一体」という持論で知られる。その田さんが、映画の無法松の影響を受けたことを認めていたという。

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 一時は姿を消した人力車も、京都など観光地を中心に息を吹き返しつつある。東京の観光名所である浅草で個人営業をする岡崎屋惣次郎さん(39)によると、1人1台の個人営業からチェーン店を含め、全国の観光人力車はざっと500台あるという。

 人力車は免許も資格も要らない。体力に自信があり、車さえ確保できれば、誰でもできる。手っ取り早く稼ぐにはいい仕事だ。無法松の時代とさほど変わりはない。

 「無頼の徒の巣」と描かれた小倉の古船場や馬借(ばしゃく)周辺はがらりと変わった。モノレールが通り、食品店が軒を並べる旦過(たんが)市場は観光名所になった。古い町並みの先にはビルが立ち並び、夜はネオン輝く盛り場へと変わる。

 その一角にポツンと「無法松之碑」が立つ。「何もかも変わってしもうた」。こんな嘆きが聞こえそうな夏の一日、無法松が走り回った小倉には、もう人力車の姿はなかった。

文・植木裕光 写真・溝越賢
(09/02)
〈ふたり〉

 明治30(1897)年ころの小倉(現北九州市)。松五郎は、気に入らない芝居小屋の桟敷席で酒のつまみにニンニクを焼いて嫌がらせをするなど、無法松と異名を取る暴れん坊の人力車夫。けがをした少年、敏雄を家に送り届けたのが、吉岡陸軍大尉の美しい妻、良子との出会いだった。

 松五郎は吉岡一家との交流を深めるが、良子が30歳の時に、大尉が演習での風邪をこじらせて急死。引っ込み思案の敏雄の行く末を案じる良子の相談相手となり、足しげく吉岡家に出入りするようになる。

 敏雄が高等学校進学で小倉を離れ、敏雄のいない吉岡家に出入りする口実が無くなった松五郎は、手の届かない世界にいる良子への思慕を募らせていくのだが……。

 岩下俊作(1906〜80)が39(昭和14)年に「九州文学」に発表した「富島松五郎伝」が原作。何度も舞台化、映画化され「無法松の一生」として広く知られるようになった。



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