トップ 特集 テーマで行く旅 海外旅行 国内旅行 特選 海外出張

愛の旅人

司馬遷「史記」
»〈ふたり〉へ司馬相如と卓文君―中国・四川省

 「酒のにおいがするので、市街に入ったとわかる」と言われ、まさかと思っていた。だが確かに、雑穀が発酵する癖の強い香りが、街路に充満していた。四川省・成都(チェントゥ)から南西へ80キロ。チョンライは白酒(パイチュウ)の生産で知られる。ときにアルコール度数が50%を超える強い蒸留酒で、米、麦のほか、コーリャンやトウモロコシを原料とし、多様な味と香りが醸し出される。

写真

街路樹の葉がてらてらと光っている。ガジュマルの一種だ。中国大陸の深奥にあるが、緯度は屋久島とほぼ同じ=四川省チョンライで

写真

徹夜で営業する観光街「錦里」。ここでも主役は「酒」だ=成都市の武侯祠で

写真

半裸で仕込む「文君酒」=チョンライで

図

卓文君の絵を使った白酒のボトル

 「全中国の白酒の3分の1が四川省で生産されている」と四川大学の袁庭棟(ユアン・ティントン)教授(65)は自慢する。なかでもチョンライは、酒造りの中心地だ。最盛期に蔵元が1000以上あった。蔵元社長「酒老板(チュウラオパン)」は、そろって1000万元(1元は約15円)以上のお金持ちで、「業者の大会があると、ベンツやBMWが数十台も集まって、実に壮観」だそうだ。

 教授は、この地方の文化と歴史が専門だが、四川省美食家協会特別顧問の肩書も持っている。一緒に食事して、酒豪であることもよくわかった。

 「そもそも中国古代の青銅器は、3分の1が酒器なんだが、醸造図を刻した漢代のれんがが出土したのは、四川省だけ」と話す。唐代の酒造所跡が文化財に指定されてもいる。歴史から酒の気が抜けたことがない土地なのだ。

 司馬相如(しば・しょうじょ)と妻の卓文君(たくぶんくん)が、チョンライに酒場を開いたのは、正しい判断だった。店が繁盛して、酒はいくら造っても足りなかったらしく、酒の絞り糟(かす)を餌に豚を飼っていたとの逸話がある。

 「糟糠(そうこう)の妻」とは、糟をなめ、糠(ぬか)を食べて、貧しい時代を共にした連れ合いのことだ。後漢の時代、妻を離婚して、皇帝の姉と再婚するよう求められた宋弘という人物が、「糟糠の妻を去らせることはできません」と断った故事に由来する。

 全く逆のケースが、宋代の陳世美という男だ。糟糠の妻を故郷に残して上京し、官僚試験にトップで合格、皇帝の娘婿に納まり、訪ねてきた妻を追い払う。京劇の人気演目の一つである。

 中国人が夫婦関係を評価するとき、常に引き合いに出されるのが、この善悪2例である。文君は糟こそ豚に食わせていたが、糟糠の妻の典型として、おおいに尊敬されている。台湾では、縁結びの神として、「情人廟(チンレンミャオ)」というのにまつられているほどだ。

 チョンライ市街の真ん中に「文君井(ウェンチュンチン)」という古井戸が残る。入り口がすぼまり、深くなるほど断面が広がる形は漢代の井戸の特徴を示す。そのため文君がここの水で酒を造ったという話になっている。この井戸と同じ水脈の水を使っている白酒が「文君酒」。市街を酒臭くしている正体は、その工場だった。

 現在の製品の度数は38%から52%。「清末には、68%というのをつくっていた」という。蒸留器から滴り出たばかりの酒にその名残がある。ブリキのコップに受けて、ひとくち飲む。同様に試飲した教授と顔を見合わせて、思わずにんまり。

今も昔も民族のるつぼ

 司馬相如と卓文君が酒場を始めたころ、時間は多少前後するが、中国古代最大の冒険家・張騫(ちょうけん)が、中央アジアの奥、今のアフガニスタン北部にあったイラン系民族の国・大夏(たいか)にたどり着いた。そこで見つけたのが、「キョウの竹杖(ちくじょう)」。身毒(しんどく)国(インド)経由で持ち込まれたものだとわかる。「史記・西南夷列伝」にある記述だ。

 キョウの竹は、節がソロバンの玉のようにふくれていて、それで作った杖(つえ)が、珍重されていたらしい。

 そのころの四川省は、テイや羌(きょう)といったチベット系民族が乱立、キョウというのも、そんな先住部族の一つだった。人々は前後にまげを結った槌(つち)のような髪形をしていたという。戦国時代の末に強国の秦が進出してきて城塞(じょうさい)を築き、現在のチョンライの町の起源となった。

♪  ♪  ♪

 秦に敗れて、東方の母国から強制移住させられた漢民族も多かった。文君の先祖の卓氏も、河北省あたりから夫婦で荷車を押してやってきた。鉄鉱石を産出するここに落ち着き、製鉄業で成功したと、「史記・貨殖列伝」にある。先住部族を手なずけ、交易も手がけたようなので、インドに竹杖を売っていたかもしれない。

 チョンライは、先住部族と漢民族の移民が対立を抱えながら混在する「民族のるつぼ」だった。また、チベットに連なる3000メートル級の高地を背負っていることから、町のすぐそばに虎やオオカミが出没、たぶんパンダも出てきた。

 アメリカ開拓時代の西部を、つい連想してしまう。先住民の攻撃がしばしばあり、ピューマも出れば、コヨーテも現れる。金鉱でひとヤマ当てようとして、ならず者が流れてくる。

 相如と文君の酒場は、そんなリスクとチャンスに満ちた土地に開店したのだった。「妻は酔客に酒を勧め、夫はふんどし一丁で皿洗いに精を出した」といった様子を「史記」は伝える。

 「文人下海(ウェンレンシャーハイ)の中国最古の例です」とチョンライ市風景旅遊局の王茂楠(ワン・マオナン)局長(40)はいう。下海は商売に身を投じる意味だ。どんなに落ちぶれても、教師になるか、金持ちの居候にとどまるのが知識人で、その伝統を初めて破ったというわけだ。「しかも店では奥さんの下働き。勇気があります」とのこと。

 相如が知識人でありながら、商売を始めるのを恥じず、また妻の風下に立ってひがまなかったのは、この地方に西部開拓時代を思わせる自由と自立の風土があったからだと思われる。

 多民族が入り乱れる修羅場は、相如にとって得意の分野だった。名を上げたのは、詩文の才能で武帝に気に入られたこともあったが、不穏な動きを見せていた先住部族を、言葉たくみに懐柔した功績が大きかった。

 文君も同じ環境に育ち、駆け落ちを辞さない強い女となっていたのだろう。ふたりは、馬車で逃げ出したが、そんなところも西部劇風だった。

 素寒貧の男が大富豪の娘と一緒になる。現代でもそうある話ではない。「糟糠の妻」という忍耐本位の倫理観の枠に押し込んですむ夫婦には、どうしても見えない。

♪  ♪  ♪

 テイや羌はその後、チベット民族の祖先となり、また漢民族に吸収されてゆき、この地方の民族性を入り組んだ形にした。「ぼくの鼻、ニンニクの形してるだろ。大蒜鼻(タースアンピー)っていうんだ。先住部族の一つの特徴」と袁教授は、かっかと笑いとばした。

 教授によれば、明末から清初にかけての戦乱のため、成都は80年間、全く無人の地となる。それが、この地方の民族的多様性を一層進めることになった。住民の95%は、その無人時代以降にやってきた他省からの移住者の子孫だ。出身地は20の省に及ぶ。現在の成都もまた移民の都市なのだ。

♪  ♪  ♪

 成都のチベット料理店で、民族衣装を着た娘たちが、目をきらきら輝かせて働いていたので、尋ねてみると、四姑娘(スークーニャン)山(6250メートル)やミニヤコンカ(7556メートル)のふもとから、2、3カ月交代でやってくるのだという。

 チョンライのすぐ西に、阿パ蔵(アパツァン)族羌(チャン)族自治区や甘孜蔵(カンツーツァン)族自治区といったチベット系民族の住むエリアが広がる。

 その中心都市の康定(カンティン)は「康定情歌」という恋歌で有名である。中国人なら誰でも知っている曲で、最近では「女子十二楽坊」が演奏した。チョンライから西に150キロ。袁教授は、「歌に誘われて出掛けてみたことがある……」といって、突然歌い出した。

 在那遥遠的地方(ツアイナーヤオユエンターティーファン)

 有位好姑娘(ヨウウェイハオクーニャン)

(はるか遠いところによい娘がいる)

 それは同じチベット民族の恋歌でも青海省の「草原情歌」のように聞こえたが、そんな違いに目くじらを立てる気持ちがなくなるほど、朗々とした歌声だった。

文・穴吹史士 写真・白谷達也
(09/09)
〈ふたり〉

 司馬相如は、中国史上最大の愛妻家と知られる。

 紀元前2世紀の漢代に実在した人物。文武両道に才能を持ちながら適職に恵まれず、諸国遍歴の後、落ちぶれて故郷の成都へ帰ってきた――。ほぼ同時代に生きた司馬遷は「史記」にそう記す。

 一方の卓文君は、才色を兼備しながら、夫に先立たれ、チョンライ(当時は臨チョン)随一の富豪である実家に身を寄せていた。そこへ貴人を装った相如が、友人の手引きで乗り込み、琴の熱演で文君を誘惑、成都に駆け落ちしてしまう。

 だが、相如の家は四方の壁以外なにもないあばら家。ふたりはチョンライへとって返し、なりふり構わず酒場を始める。外聞をはばかった文君の父親が財産を分与、やがて相如は武帝に重用され、故郷に錦を飾る。

 老年になって、側室を置きたいと、相如が文君に打診したところ、「それじゃ別れましょう」といった内容の詩を返されて断念、というエピソードが、後世つけ加えられた。最大の愛妻家は、同時に最大の恐妻家であったというわけだ。



ここからツアー検索です

ツアー検索

情報提供元 BBI
ツアー検索終わり ここから広告です
広告終わり

特集記事

中国特集へ
∧このページのトップに戻る
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。 Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.